![和光寺 和光寺](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/44/Wakoji_%28Nishi%2C_Osaka%29hondo.jpg/400px-Wakoji_%28Nishi%2C_Osaka%29hondo.jpg)
和光寺(わこうじ)は、大阪市西区北堀江にある浄土宗の寺院。山号は蓮池山。本尊は善光寺式阿弥陀三尊。尼僧が住職を務める。摂津国八十八箇所第3番札所。あみだ池(あみだいけ)の通称で知られ、大阪市の南北幹線道路のひとつであるあみだ池筋の名称は当寺院に由来する。
この地にある阿弥陀池は、後に信濃国善光寺の本尊となる阿弥陀如来像が捨てられ、また引き上げられた場所として有名であり、江戸時代の初期には念仏修行者の精舎が建てられていた。そこに、元禄11年(1698年)堀江新地の開発に合わせて智善上人が善光寺の本尊が出現した霊地として新たに寺院を建立、開山である智善から院号をとって蓮池山智善院和光寺と称した。
江戸幕府の命令で境内地は1800坪とし、また永代寺地と定められた。そして善光寺から全長約45cmの金銅製阿弥陀仏像を迎え、元禄12年(1699年)に本尊として祀った。迎えられた阿弥陀仏というのは善光寺の本尊である一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊を、承久3年(1221年)に浄蓮上人にお告げが下り、同年5月に模して制作されたものである。光背には七仏薬師が付いており、現当二世のご利益があるとされるものである。
智善上人は大和国郡山藩(大和郡山市)の柳沢氏の出身で、信濃国善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人である。享保12年(1727年)7月21日に没した。
江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵(まっこうじぞう)・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現(こんぴらごんげん)・金銅地蔵・鐘堂があった。周辺で参詣人を目当てとした「いろは茶屋」と称する47軒の茶屋が遊所として商いを行なっていたほか、境内にも浄瑠璃の席、講釈の寄席、軽業等の見世物や物売りの店が並び、特に富くじと植木市が有名であった。
1945年(昭和20年)3月14日、米軍による第1回大阪大空襲で本堂・諸堂などが焼失した。
戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。放光閣も再建された。1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。
境内に阿弥陀池(あみだいけ)がある。堀江新地の開発以来、和光寺の東西一帯は阿弥陀池に由来した御池通(みいけどおり)という町名となり、明治の一時期を除いて1978年(昭和53年)に現在の町名に変更されるまで存在した。池の中央には放光閣(ほうこうかく)という宝塔がある。上方落語の演目の舞台にもなっている(尼寺であることも、ネタの中で触れられている)。
長野県の善光寺本尊である一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊は欽明天皇13年(552年)、百済国より仏教伝来とともに伝わった、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏・廃仏の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられた。
信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来をこの池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は信濃国伊那郡の若麻績里(現在の長野県飯田市の元善光寺)に祀ったが、皇極天皇元年(624年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。
「化(あだ)なりと花に五戒のさくらかな 晋其角翁」
この句の意味は「五戒とは在家の人が守る殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の五つの禁戒をいい、桜の花を折り盗むのは五戒にひっかかるが、それほど桜の花が美しいのもあだであるなあ」 また、この碑が建てられたのは嘉永6年(1853年)。其角没後146年である。
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