![ニカノール・デ・カルバーリョ ニカノール・デ・カルバーリョ](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
ニカノール・デ・カルバーリョ(ポルトガル語: Nicanor de Carvalho, 1947年2月9日 - 2018年11月28日)は、ブラジル・サンパウロ州レーメ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(右ウイング)。
1964年にインテル・ジ・リメイラで選手としてのキャリアをスタートさせる。キンゼ・デ・ピラシカーバ、ポンチ・プレッタを経て、1969年に移籍したサンパウロFCでは通算13試合出場0得点。フェロヴィアリア、レモを経て、現役最後はアメリカ合衆国のマイアミ・トロスでプレーした。
サンカルロス連邦大学で体育学を学び、フィジカルコーチとしてポンチ・プレッタ、コリンチャンス、サン・ジョゼECにて働く。1984年にインテル・ジ・リメイラで監督としてのキャリアをスタートさせ、以後、グレミオ・マリンガ、アトレチコ・パラナエンセ、コリチーバ、サン・ジョゼEC、ポンチ・プレッタ、サントスの監督を歴任。
1991年、日本のフジタのヘッドコーチに就任。肩書上は古前田充が監督だったが、実際にはニカノールが監督としての役割を担った。クラブは1993年にベルマーレ平塚に改称され、同年のジャパンフットボールリーグに優勝、Jリーグ参入を決める。1994年のJリーグでは2ndステージで2位となり、同年度の天皇杯では優勝したが、1995年シーズン途中に解任された。1995年9月から12月まではグアラニFC監督を務めた。
1996年から1997年まで柏レイソルの監督を務め、1995年に年間順位が12位だったチームを、1996年に優勝争いに加わって5位まで押し上げ、Jリーグ最優秀監督賞を受賞。
1997年は、ファーストステージは優勝争いに加わり、当時チーム最高の3位に導いた。しかし、セカンドステージでは調子に乗れず、エジウソンの退団もあり優勝争いに加わる事が出来ず成績が低迷。シーズン終了後に金銭面を巡ってフロントと対立し監督を退任。
1998年、ヴェルディ川崎の監督を務め、ワールドカップ中断時は、首位に立ち優勝争いに加わった。しかし、その後は、失速しファーストステージは6位に終わった。セカンドステージも怪我人の続出や主力選手の不調もあって下位の成績に低迷し、解任された。
その後、アメリカ-SP、ボタフォゴ-SP、リオ・ブランコ-SP、ブラガンチーノにて監督を務めた。
2018年11月28日、心不全のため死去。71歳没。
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