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インターグシケン


インターグシケン


インターグシケンとは日本の競走馬である。第39回菊花賞の優勝馬。主戦騎手は「ターフの魔術師」武邦彦。馬名の由来は、冠名「インター」に、当時のWBA世界ジュニアフライ級チャンピオン具志堅用高の名字「グシケン」より。

戦績

3歳

1977年6月にデビューしたインターグシケンは、札幌で行われた2戦目の新馬戦で福永洋一とのコンビで初勝利を挙げた。続くダートのオープン戦で3着となった後、北海道3歳ステークスで主戦となる武邦彦と初コンビを組んだが、4着に終わった。

秋になるとインターグシケンは京都1600メートル戦の紅葉杯でレコード勝ちを収めるなど、徐々に頭角を表し始めたが、重賞ではバンブトンコート相手に歯が立たず、デイリー杯3歳ステークス、阪神3歳ステークスとも2着に終わった。

4歳

翌1978年、インターグシケンはシンザン記念3着、中京で行われたオープン1着と2戦した後、きさらぎ賞で念願の初重賞制覇を飾った。しかし、その後スプリングステークスでは1番人気に推されながら3着、クラシック1冠目の皐月賞でも追い込み届かずファンタストにクビ差の2着と惜敗した。

それでもNHK杯を制したインターグシケンは、稀に見る混戦となり「戦国ダービー」と呼ばれたクラシック2冠目の日本ダービーに挑んだ。単勝3番人気に推され、ダービー制覇の有力馬の一角と目されていたが、レースでは直線で伸びを欠きサクラショウリの6着に敗れ、初めて掲示板を外した。

インターグシケンは、ダービー後に休養し秋を迎えたが、京都で行われたオープン戦は2着、京都新聞杯は4着と2戦続けてメジロイーグルの後塵を拝し、勝ちきれないレースが続いた。その結果、クラシック最終戦の菊花賞では単枠指定されたダービー馬・サクラショウリが抜けた人気となり、インターグシケンは単勝3番人気に留まった。しかし、レースではチェリーリュウが玉砕覚悟の大逃げを打ったことでハイペースで推移。中団で折り合いをつけて脚を溜めていたインターグシケンは、直線で早めに先頭に立ったサクラショウリ以下を一気に交わし、後方から追い込んできたキャプテンナムラを半馬身抑え、3分6秒2のレコードタイム(当時)で優勝した。

5歳

1979年、古馬になったインターグシケンは、初戦のスポーツニッポン賞金杯で、61キロの負担重量を背負いながら、鋭い末脚でアイノクレスピンを差し切って優勝。かつての勝負弱さを克服し、本格化を遂げたと周囲に印象付けた。しかし、この後、脚部不安を発症して長期休養を余儀なくされる。

8月に関東に転厩後、復帰はしたものの、その後は2戦したのみで、この年の有馬記念でグリーングラスの13着に敗れたのを最後に引退、種牡馬入りした。なお、最後の2戦は柴田政人が騎乗している。

引退後

引退後、インターナショナル牧場で種牡馬となったインターグシケンは、オープンで活躍した馬を複数出すなど、悪くない種牡馬成績をあげた。しかし、馬産地では非常に気性の悪い馬で知られていた。1988年8月24日の早朝、馬房で倒れているのを発見されたが、すでに息絶えていた。心臓疾患による急死であった。

代表産駒

  • イブキファイブワン(北九州記念)
  • ショウリテンユウ(中日新聞杯、種牡馬)
  • ウットマン(全日本サラブレッドカップなど、地方重賞6勝)
  • トマム(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス3着、種牡馬)

競走成績

  • 1977年(9戦4勝)
    • 2着 - 阪神3歳ステークス、デイリー杯3歳ステークス
  • 1978年(11戦4勝)
    • 1着 - 菊花賞、NHK杯、きさらぎ賞
    • 2着 - 皐月賞
  • 1979年(3戦1勝)
    • 1着 - 金杯(西)

血統表


脚注

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外部リンク

  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: インターグシケン by Wikipedia (Historical)


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