諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。
全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は「諏訪神社」。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも。
長野県中央の諏訪湖を挟んで、次の二社四宮が鎮座する。
上社は諏訪湖の南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっている。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はない。
創建年代は不明だが、日本最古の神社の1つとされるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が建てられているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。
諏訪大社全体で祀る主祭神は次の2柱(各宮の祭神については各項参照)。両神とも上社・下社で祀られている。
なお、上社の古い神事や祭祀には長野県を中心に東日本全域に分布していたミシャグジ信仰の痕跡が見られる。また、水の神・風の神とされたことから諏訪大社の神を蛇(あるいは龍)とみなす信仰は昔から伝わり、諏訪の神が蛇または龍として登場する伝承や民話(甲賀三郎伝説や小泉小太郎伝説など)は数多く残っている。
八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神(諏訪明神)」・「諏訪神」として扱われる事が多い。
諏訪大社の社殿の周囲四隅には、御柱(おんばしら)と呼ぶ以下4本のモミの柱が建てられている。御柱は一から四の順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置される。
下社秋宮・春宮では御柱先端の御幣が正面(裏面は曳行により削れている)を向いているが、上社本宮・前宮では諏訪大社奥宮のある八ヶ岳の方向を向いている。諏訪地方では、大きい神社から小さい祠に至るまで、諏訪大社にならってこの御柱を設ける社が多い。御柱の由来は明らかでなく古来より説があるが、今日では神霊降臨の依り代説、聖地標示説、社殿建て替え代用説が検討の余地を残している。
諏訪大社の御柱は寅と申の年に建て替えられ(御柱祭)、全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。『諏方大明神画詞』(1356年)には平安時代初期の桓武天皇年間(781年~806年)に御柱祭実施の記載があり、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる。
上社本宮には本殿が設けられていない。本宮の神体は現在守屋山と一般的に認識されているが、明治時代の始まりまでは諏訪明神こと建御名方神の「御正体」(依り代)とされた諏訪氏出身の大祝(おおほうり)が上社の神体ないし現人神として崇敬されていた。
前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿を有している。元々、これは大祝が就任する前に精進潔斎を行う仮屋であったが、昭和7年(1932年)に取り壊され、伊勢神宮から頂いた古材で現在の本殿が建てられた。解体された精進屋は茅野市内にある別の神社の社殿として再利用された。
『画詞』に「当社大祝は此れを神体として崇敬異他の重職なり」とある通り、中世には上社の祭祀の対象は大祝であるという認識が根強かった。
山を上社の神体とする現存する最古の文献は天文22年(1553年)12月の奥書のある『上宮鎮坐秘伝記』である。
これが守屋山神体山説の元と考えられているが、ここには守屋山の名は出てこない。江戸時代の文献には守屋山に筆頭神官の神長官を務める守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)の霊を祀るとはあるものの、守屋山を上社の神体山とうかがわせる記述はない。守屋山を神体山とする説はむしろ明治時代以降から見られるものである。実際には山頂の石祠は物部守屋を祀る守屋神社(伊那市高遠町)の奥宮とされている上にそれには御柱がなく、諏訪に背を向けている。ただし、諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした際に降臨した場所は守屋山の麓という『諏訪信重解状』(伝・1249年)に書かれている伝承で見られるように、この山は必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない。織田氏による甲州征伐(1582年)の際に神輿を担いだ神官たちが避難した先は守屋山であったと言われている。
室町時代書写の『諏訪上社物忌令之事』(1237年成立)によると中世の上社の社壇は三檀三折の地形で、上壇(現在の拝殿・斎庭とその奥の禁足地)には「石の御座」があり、中壇には宝殿があり、下壇は神事を行うところである。『画詞』にも「社頭の体、三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居・格子のみあり」とある。つまり上壇には磐座が存在し、それが神の降りる場所と信仰された。この磐座は拝殿の右側の少し高いところにある「硯石(すずりいし)」で、古くは硯石を通してその背後にある守屋山を遥拝していたという説があるが、硯石は元々このところにあったのではなく中世以降に他所から移された可能性があるという指摘もある。
原正直(2012年)は諏訪明神の磐座を拝殿の奥にある「えぼし岩」とし、文献に見られる「蛙石」や「甲石(かぶといし)」や「御座石」はすべてこの岩のことを指すという説を挙げている。(なお、本宮境内の蓮池には「蛙石」と伝える石もあり、茅野市にある御座石神社にも「御座石」と呼ばれる石がある。)
神が磐座に降臨するという思想は大祝の即位式にも見られる。大祝となる童男が諏訪明神の神体となるためには、柊の木のある鶏冠社(前宮境内)の石の上に立ち大祝の装束を着せられる。この儀式を受けることによって少年が神となるとされた。前宮の本殿(精進屋があった場所)の下にも磐座があると伝わる。
上社本宮の本来の信仰の対象は上壇の磐座(ここでは硯石に比定)とその背後の山(守屋山)であり、本宮の御柱の位置がそれを反映しているという説がある。この説では、中世以降に上壇に拝殿が作られ神仏混交の影響でその奥にある聖域(神居)に「お鉄塔」と呼ばれる仏塔(以下詳細)が設置されると信仰軸が山から拝殿の奥に変わってしまったとされている。
一方で金井典美(1982年)と原正直(2018年)は上社の本来の神体山は八ヶ岳一帯であり、その麓にある上社の狩場・御射山(みさやま)はそれを祀る場所であったという説を立てている。(これに対して八島ヶ原湿原に位置する下社の旧御射山は鷲ヶ峰の神霊を祀る祭場であったと考えられている。)原は中世の終わり頃(武田信玄による上社の祭祀の復興あるいは天正10年(1582年)に焼失した社殿の再建)に際して信仰軸に変更があったことを否定しており、むしろ中世から変わっていないと考えている。本宮の拝殿が向く先には御射山があることを根拠に、原は『上宮鎮坐秘伝記』に見られる「山」を上社の御射山に比定している。
御射山境内には三輪社が鎮座しており、中世では御射山の地主神(本地仏が虚空蔵菩薩)と三輪明神(大物主神)の習合にまで至った。これについて原は三輪信仰を吸収した近江国の山伏が広めた甲賀三郎伝説の影響で諏訪信仰そのものも三輪信仰の影響を受けた結果、御射山の神を三輪山の神と同体とする思想が生まれたという見解を述べている。なお諏訪氏(神氏)を大神氏の同族集団とする説もあり、大神神社と同様に諏訪大社に本殿がないのはこのためであると考えられている。
神仏習合の時代には本宮の幣殿の奥に南天鉄塔をもとにした石之御座多宝塔(「お鉄塔」とも)と呼ばれる仏塔が安置され、大祝のほかに神体に相当するものとされた。かつては毎年1月15日にこの塔に『法華経』を納める仏事は行われていたが、経巻は龍の姿で現れる諏訪明神が受け取りに行くため次の年にはなくなると信じられていた。また、上社の本地仏である普賢菩薩を祀る「普賢堂」は奥の院として多くの参拝者を集めた。普賢堂に安置されていた普賢菩薩像は諏訪明神そのものとして祀られて、甲州征伐の時に織田信長が神の力を恐れて菩薩像部分を破壊したという言い伝えがある(像は信長の死後に再彫刻される)。
明治初期に神仏分離令が発令された際、「お鉄塔」は諏訪藩主家の菩提寺であった温泉寺(諏訪市湯の脇)に移され、普賢堂の普賢菩薩像とその他の仏像は仏法紹隆寺(諏訪市四賀)へと秘かに運ばれた。2015年(平成27年)6月からの解体修理で像内部に「信州すはの本尊也」との書付が見つかった。
秋宮の神体はイチイの木、春宮はスギの木とされている。ただし春宮は砥川のほとりに位置しているため、本来は水霊を祀る祭祀場であったと思われる。砥川は八島ヶ原湿原(八島湿原)を水源とするが、ここには下社の旧御射山(もとみさやま)があり、葦や菅が芽吹く頃には水田にも見えるため「神の田」として崇拝の対象であったと考えられる。
一方で秋宮の付近には青塚古墳があることから、元々は金刺氏(下社大祝家)の祖霊祭祀の場であったという見解がある。
下社秋宮の本地仏が千手観音とされ、秋宮付属の神宮寺(現存せず)には千手堂があった。この堂では毎朝、千手秘法の護摩を修し、節分には追儺が執り行われた。いっぽう薬師如来を本地仏とする春宮には薬師堂が存在していた。明治の廃仏毀釈の際に移動された秋宮の千手観音像は岡谷市にある照光寺に、春宮の薬師如来像(鎌倉時代作)は下諏訪町にある敬愛社に安置されている。
本宮・秋宮・春宮には、本殿がない代わりに2つの宝殿がある。宝殿の一方には神輿が納められ、寅と申の年の御柱祭で御柱建て替えと同時にもう一方へ遷座し、古い宝殿は建て替えられる。すなわち1つの宝殿は12年ごとに建て替えられ、神明造に似た古い様式を現在に伝えている。寅年から申年の間、神輿は向かって右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)。神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる。このように宝殿は一般の本殿にあたると解され、神社に本殿が設けられる過渡期の状態と考えられている。
建て替えられ役目を終えた宝殿は近傍の摂社、末社、分社などの社屋、補修用材として再利用される。平成18年7月豪雨で土石流災害により流出した岡谷市の舩魂神社は上社本宮の宝殿を移築して平成21年に再建された。
そのほか、宝殿を含め社殿は華美な装飾・塗装はなされず、全て素木造である。
神社の起源に関しては様々な説話が語られている。
『古事記』『先代旧事本紀』では、天照大御神の孫・邇邇芸命の降臨に先立ち、建御雷神が大国主神に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主神の次男である建御名方神が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
一方で、諏訪地域に伝わる神話では建御名方神(諏訪明神)が諏訪に侵入した征服者として描かれている。これによると先住神の洩矢神(守矢氏の遠祖)が建御名方神と対抗しようとして戦いを挑むも敗れ、最終的に諏訪の統治権を建御名方神に譲ったと言われている。またもうひとつの伝承によると、諏訪明神が8歳の男児に自分の装束を着せつけた後に「我に体なし、祝(ほうり)を以て体とす」と告げて自分の身代わり(神体)として認定した。この少年はやがて守屋山麓に社壇(後の上社)を構えて上社大祝を務める神氏(諏訪氏)の始祖となったと言われている。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に先住の勢力(守矢氏)の上に外から入った氏族(上社の神氏・下社の金刺氏)によって成立したと考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。
祭祀が始まった時期は不詳。上社本宮付近にあるフネ古墳(5世紀前半築造)には蛇行剣や呪術性を持つ副葬品(銅鏡・釧・鹿角小刀子等)が発見されているため、被葬者は天竜川上流・諏訪湖水系を統治して上社信仰と関連のある人物と思われる。文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に「信濃須波」の神を祀るというのが初見である。
平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」、『左経記』には「須波社」と記載されている。また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され名神大社に列しているが、この二座が上社・下社を指すとされる。また、信濃国の一宮とされた。
古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる。
諏訪大社は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月条に見える「信濃須波」の神を祀るというのが初見である。宮地直一や吉野裕子は、4月から6月にかけて降った雨などの、この年の天候不順が須波神が祀られた原因であると指摘した。この時、他の神ではない諏訪の神が選ばれた理由は、天武天皇と信濃国の関係の深さや、諏訪の地理的特徴などの他に、『古事記』にのみ登場する「建御名方神」はこの時点では創作されておらず、建御名方神となる以前の「諏訪土着の神」が、諏訪湖や天竜川と関連する水神であったからであるとする説がある。
平安時代末期には八条院領の荘園である一方、一之宮として信濃国内に所領を有した地方権門でもあった。その領家は八条院女房宰相でその孫の池頼盛正室に伝領された。治承・寿永の乱(源平合戦)には大祝の諏訪敦光(篤光)がが源氏のために祈願した。
鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付された。頼朝は諏訪大社に神馬を奉納し、信濃御家人に対しては、毎年恒例の重要祭事である五月会や上社南方の御射山で行われた御射山祭における頭役(祭礼の世話役)を務める神役勤仕(しんやくごんじ)を徹底させ、大祝に従うべきことを命じている。嘉暦4年(1329年)幕府が上社に発給した「頭役下知状案」では信濃の地頭・御家人が十四番に編成され、輪番制で1年毎に頭役に勤仕したことが示されている。頭役に任じられた御家人は鎌倉番役(将軍御所等の警護任務)を免除される特権が与えられ、自らの家格や権勢、財力の誇示にもつながることから、熱心に勤仕した。五月会や御射山祭で神事の頭役に当たる信濃御家人は、その任期中は国司の初任検注を免除された。五月会や御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進んだ。
この頃には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり、治承4年(1180年)が上社・下社の区別が明示されている初見であり、幕府によって「勝劣あるべからず」とされていた。他の神社同様、諏訪大社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。建暦2年(1212年)、幕府は諸国の守護・地頭に鷹狩禁止令を出したが、諏訪大明神の「神御贄鷹」については、勧請された分社も含めて例外的に許可したことにより、諸国の御家人が諏訪大社を相次いで勧請する契機となった。また諏訪神党に属する根津氏の鷹匠流派が確立した。
戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年(1542年)には手切れとなり、武田晴信(信玄)による諏訪侵攻が行われ、諏訪郡は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領侵攻が行われ、同年3月2日には高遠城を陥落させた織田信忠の軍勢が諏訪郡へ侵攻し、3月3日には上社への放火を行った。
江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって慶安元年(1648年)に上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵された。また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された。
明治初頭に出された神仏分離令の影響で上社・下社付属の寺院の多くが撤去・破壊され、その中に安置していた仏像・仏具は諏訪郡内の寺院に移された。
明治4年(1871年)に神職の世襲制が廃止された結果、従来の社家はすべて解職された。近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。
戦後は神社本庁の別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。
昭和39年(1964年)5月12日、昭和天皇、香淳皇后が第15回全国植樹祭開催に合わせて県内を行幸啓。下社を訪問した。
諏訪大社にはかつて最高位の神官・大祝(おおほうり)のもと、五官祝(ごがんのほうり)と呼ばれる神職が置かれた。
その他の神職として、若宮祝・宮津子祝・神楽役検校大夫・天王祝などの祝、八乙女、荷子などが文献に見られる。明治以降は社家制度が廃止され神社本庁から神職が派遣されるようになったため、上記の氏族は現在祭祀に関わっていない。
上社(かみしゃ)は、諏訪湖の南岸、諏訪盆地の西南端にある。下社に対しては上流の位置にあたる。
本宮・前宮からなり、下社と異なり二宮は古くは本社・摂社という関係であった。古来の神事(蛙狩神事・御頭祭・年中4度の御狩神事など)に見られるように狩猟民族的な性格を有している。
かつては本宮を主として上諏訪の中心地であったが、近世以後は北方の高島城城下町に移り、そちらに甲州街道の上諏訪宿も設けられた。
本宮(ほんみや)は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座する。社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県指定の天然記念物に指定されている。
前宮(まえみや)は、本宮の南東約2kmの地に鎮座する。諏訪の祭祀の発祥地とされる。境内には水眼川(すいががわ)が流れる。
上社の中で一番古い社で、かつては祭事の中心地でもあった。本来は守矢氏の本拠地であったが、神氏が諏訪に進入して大祝体制が成立してから大祝に譲ったといわれている。
当地には大祝の始祖とされる有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていた。大祝は神体と同視(いわば現人神)されていたことから、その居館は「神殿(ごうどの)」と尊称され、周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれた。当地では代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われ、摂末社も多く置かれた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地であった。
のち諏訪氏は兵馬の惣領家と祭祀の大祝家とに分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。そして大祝の屋敷もまた慶長6年(1601年)に移転したが、祭事は引き続いて当地にて行われていた。
江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格を有して鎮座していたが、明治以降上社の前宮と定められた。上社の祭政一致時代の姿を色濃く残していることから、現在境内は「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されている。
現在の祭神は八坂刀売神となっているが、これは『続日本後紀』に記載されている「前八坂刀売神」から発生した後世の解釈であり、古文献には「前宮二十の御社宮神」が見られることから本来はミシャグジを祀る場所だったという説がある。
下社(しもしゃ)は、諏訪湖の北岸、諏訪盆地の北縁にある。上社に対しては下流の位置にあたる。
秋宮・春宮からなり、上社と異なり二宮の地位は同格で、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を遷座する。南側が開けており古くから農耕が盛んな地であり、農耕民族的な性格を有している。
一帯は下諏訪の中心地で、近世には中山道・甲州街道の宿場町として下諏訪宿も設けられた。
秋宮(あきみや)は、下諏訪の町の東端に鎮座する。東方には承知川が流れている。
毎年8月-翌1月に祭神が祀られているため、秋宮とよばれている。境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されている。周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。社殿の形式は春宮と同じで、古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われた。
春宮(はるみや)は、下諏訪の町の北端、秋宮の北西約1.2kmの地に鎮座する。下社最初の遷座地とされる。西方には砥川が流れている。
毎年2月-7月に祭神が祀られているため、春宮とよばれている。境内は社殿3棟が国の重要文化財に指定されている。
下社の摂末社は現在27社ある。主なものは次の通り。
上社に比べて史料が残っておらず不明な神事も多い。
諏訪大社非所有の関連文化財。
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