![アンディ・ロディック アンディ・ロディック](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/42/Andy_Roddick_-_US_Open_Tennis_2010_1st_Round_312.jpg/400px-Andy_Roddick_-_US_Open_Tennis_2010_1st_Round_312.jpg)
アンディ・ロディック(Andy Stephen Roddick, 1982年8月30日 - )は、アメリカ・ネブラスカ州オマハ出身の元男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス32勝、ダブルス4勝を挙げた。身長188cm、体重88kg。自己最高ランキングシングルス1位。
2003年全米オープン男子シングルス優勝者。ATPツアー・マスターズ1000では5回優勝。有数のビッグサーバーとしても知られ、サービスエース数9074本は歴代4位記録である。
また、現在男子アメリカ人選手シングルス最後のグランドスラム優勝者・世界ランキング1位・年間最終ランキング1位経験者である。
4歳からテニスを始める。2000年全豪オープンと全米オープンジュニアシングルスに優勝し、18歳でプロ転向。2001年春から男子テニス国別対抗戦・デビスカップアメリカ合衆国代表選手に選ばれた。
2003年全米オープン男子シングルスで4大大会初優勝。決勝では当年度の全仏オープン優勝者、フアン・カルロス・フェレーロを6-3, 7-6, 6-3のストレートで倒した。ロディックはこの優勝により、それまで長年アメリカの男子テニス界を支えてきたピート・サンプラスとアンドレ・アガシの“後継者”として注目を集めた。その後ロディックは11月3日付けの世界ランキングで1位に上り詰めた。
ロディックはウィンブルドン選手権では2004年と2005年の2年連続、決勝でロジャー・フェデラーに敗れて準優勝になった(フェデラーには2003年の同大会準決勝でも敗れているため、3年連続の苦杯となる)。
2004年アテネ五輪にアメリカ代表選手として、シングルス3回戦でチリ代表のフェルナンド・ゴンサレスに4-6, 4-6で敗退する。オリンピック終了後の全米オープンでは、準々決勝でヨアキム・ヨハンソンに4-6, 4-6, 6-3, 6-2, 4-6のフルセットで敗れ、早い段階で大会連覇のチャンスを逃した。2005年全米オープンでは、1回戦でジル・ミュラーに不覚を取り、6-7, 6-7, 6-7のストレートで敗退した。
2006年全豪オープンで、ロディックは4回戦でマルコス・バグダティスに4-6, 6-1, 3-6, 4-6で敗退する。その後、ウィンブルドンでは3回戦でイギリスの新星アンディ・マリーとの“アンディ対決”に敗れてしまった。このとき世界ランキングは12位まで落ちている。ウィンブルドン選手権の終了後、ロディックは7月26日から新コーチとして往年のスーパースターだったジミー・コナーズを招聘した。コナーズに師事し始めた後、全米オープンで3年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、またもやフェデラーに2-6, 6-4, 5-7, 1-6で敗れて準優勝に終わった。
その後2年低迷していったが、名コーチであるラリー・ステファンキを新たに迎え、プレースタイル改善を図っていき、2009年ウィンブルドンでは、三度目の決勝に進出しフェデラーに挑戦したが、7-5, 6-7, 6-7, 6-3, 14-16のフルセットの末惜しくも敗れ、またも準優勝に終わった 。
ロディックは長い間クレーコート開催の全仏オープンと相性が悪く、初出場時の2001年に3回戦まで進出した後は1・2回戦敗退止まりの成績が続いていたが、ようやく2009年に初の4回戦進出を決めたが、第11シードのガエル・モンフィスに4-6, 2-6, 3-6のストレートで完敗した。
デビスカップアメリカ合衆国代表選手としても、2007年にチームを12年ぶりの優勝に導いた。
プライベートにおいては2009年4月17日に、2007年秋以降交際を続けていた水着モデルのブルックリン・デッカーと結婚した。その人気を生かし、児童虐待などの防止を呼びかけるチャリティーリストバンドをプロデュースするなど、社会的な活動も行っている。
2012年、第20シードとして出場した全米オープンの開催中で、自身の30回目の誕生日である8月30日に、現役引退を表明した。「ずっとこの大会で引退したいと思っていた。来季を戦う体力の不安があり、1回戦を戦って決めた」と記者会見で語った 。同大会4回戦にて、フアン・マルティン・デル・ポトロに7-6, 6-7, 2-6, 4-6で敗退し、現役を引退した。
ロディックは2017年に国際テニス殿堂入りを果たした。
209~242 km/hのサーブを繰り出すビックサーバー。全身の力を効率よく理想的に使ったダイナミックなサーブでエースを量産する。またセカンドサーブで打つキックサーブやスライスサーブも強力。
荒削りで若干安定性の面で欠ける部分はあるが、スウィング・スピードが非常に速いフォアハンドも武器であった。 ただし、サーブとフォアハンドに比べて、フットワーク、ストローク力等のレベルの低さは著しい。サーブやその次のフォアハンドで決められない場合、チャレンジャーレベルと揶揄されることもあった。 なお逆に伸びしろは一番と「未完の大器」と期待されていた時期でもある。
フェデラーに全く歯が立たないことから、安定性を求めトップスピン系フォアハンドを多用したり、ネットプレーにチャレンジしたり、プレースタイルに変化を求めたが、なかなか成功するまでに至らず、低迷。
しかし、このロディックのプレースタイル変更の取り組みは、名コーチであるラリー・ステファンキを迎えた晩年の2009年ウィンブルドンにて、成果を見せる。「ビックサーブを軸としたフォアハンド、ネットプレーを使った速攻」「ボディへの鋭いスピンを効かせたセカンドサーブ」「冷静な粘り強さ」を特徴として勝ち進む。フルセットの熱戦となった準々決勝ヒューイット戦、トータル獲得ポイントでは劣っていたにもかかわらず勝負強さを発揮/競り勝った準決勝のマレー戦、そして最後は力尽きたが7-5、6-7、6-7、6-3、14-16と最後にブレイクされるまで37ゲームもサーブキープを続けた決勝フェデラー戦とと、名勝負を繰り広げている。ただ2010年以降、年齢的問題、肩の怪我により急激に衰えを見せており、この輝きが続くことはなかった。
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