堀井 恒雄(ほりい つねお、1958年11月15日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。1984年から1990年の登録名は「堀井 幹夫」(読み同じ)。
実家は1887年代々続く宇治茶の栽培農家で、幼少の頃から玉露や煎茶を当たり前のように飲み、ジュースは飲んだことが無かった。「体を動かすのが好きで」と小学校まで柔道、中学ではクラスメートに誘われて野球部に入部し、入部後間もなく肩の強さを買われ、投手に転向。ノーヒットノーランを達成するなど才能を開花させ、大谷高校卒業後の1977年に大阪商業大学へ進学。
関西六大学リーグでは1年次の同年からマウンドに上がったが、3年次の1979年にはベンチ入りメンバーからも外れてしまった。その1年間をひたすらランニングに費やし、その甲斐あってか4年次の1980年春季で4勝1敗、防御率1.15を記録し、一気にドラフト上位候補になった。在学中2回の優勝を経験し、リーグ通算7勝6敗、大学同期に山田和英がいる。
同年のドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団し、1年目の1981年は開幕一軍を果たしたが、6試合登板で二軍に降格。二軍でも2勝10敗、防御率7.29と結果を残せなかった。1984年の春季キャンプで痛めていた腰を庇いながら投げていた所、右肘も痛めてしまった。治り切らないうちに投げ込みを開始し、二軍で復帰したが、再び右肘痛でリタイヤしてしまう。8月下旬に復帰するも、またも右肘痛と結局1年間を棒に振ってしまった。肘痛の不安を抱えたまま迎えた秋季キャンプで小谷正勝投手コーチから、腰の回転が向いているとサイドスロー転向を進められ、堀井は数日間悩んだ後にサイドスロー転向を決意。1985年より投球フォームをサイドスローに変更すると、難点であった制球力が安定し頭角を現す。同年6月8日の阪神戦(札幌円山)で初勝利を挙げ、同年は肘痛も無く1年間を通して活躍し、先発陣の一角として5勝とブレイク。1986年には主に中継ぎとして起用され、自己最高の7勝2セーブを記録した。
1987年オフ、小山昭晴と共に石川賢との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。肘と膝の故障を抱えながら臨んだ1990年4月30日の西武戦(川崎)では4.2回を投げて11安打と猛打を浴び、敗戦投手とはならなかったが無残なKOとなり、試合後に金田正一監督から監督室に呼び出された。いきなり待っていたのは「引退せい!」という痛烈なひと言で、続けて「コーチになれ!」とも迫られた。堀井はまだ続けたいとも言えず「考える時間をください」と言えただけであり、当時は金田を恨んだ。理不尽とも思える引退勧告であったが、生前の金田は「何事にも耐えて黙々と努力する姿が脳裏に残っていたからだ」と後日談として残しており、堀井も後に「若かったからね。結局、あのひと言で引退が決まりましたが、冷静に考えたらコーチ職なんて、なかなか言ってもらえませんからね」と振り返っている。5月6日のダイエー戦(平和台)が最後の登板となり、同年限りで現役を引退。
引退後はロッテ二軍投手コーチ(1991年 - 1992年)→一軍投手コーチ(1993年 - 1994年)、台湾CPBL・時報イーグルス投手コーチ(1995年 - 1996年)を務めた。帰国後はテレビ神奈川「YOKOHAMAベイスターズナイター」解説者(1997年)を経て、古巣・横浜一軍ブルペンコーチ(1998年)→二軍投手コーチ(1999年 - 2004年)を務め、1998年には38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。二軍コーチ時代は教えるのではなく、一軍に早く上がるように手助けをすることに生き甲斐を感じた。2005年には1年だけアメリカ独立リーグのジャパン・サムライ・ベアーズ投手コーチに就任し、この時はミールマネーだけで給料は無く、90日間で100試合というハードさであった。ウォーレン・クロマティ監督とはチームの方針を巡って毎晩のようにやり合っていたが、クロマティは堀井について「いいコーチだった。いつもスマイルね。彼はホエールズでプレーしてたんだろ?。私の記憶にはないけれど、私と同時期にセ・リーグにいたんだ。彼とはホテルなんかでもよく野球のことを話したよ」と振り返っている。
2006年に帰国し、横浜のスカウトに就任。チーフスカウトを経て、DeNAでは編成部専任部長を務めた。要職を務めた一方、ある時に海外で飲んだ日本茶の不味さに驚き、「世界の日本茶に対するイメージをどうにか変えないといけない」と感じた。半ば使命感のように「いつかはお茶に携わる仕事を」と思い続け、現在は横浜市保土ケ谷区天王町で宇治茶を販売する製茶店「又兵衛」を経営している。
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