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メアリー1世 (イングランド女王)


メアリー1世 (イングランド女王)


メアリー1世(英: Mary I of England, 1516年2月18日 - 1558年11月17日)は、イングランドとアイルランドの女王(在位:1553年7月19日 - 1558年11月17日)。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。スペイン王フェリペ2世と結婚。イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害からブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた。

生涯

不安定な身分

王妃キャサリン・オブ・アラゴンは4度の懐妊に失敗していたが、5度目の懐妊でメアリーを出産した。メアリーの名は、叔母メアリー王女(ヘンリー7世の末子)にちなんだものだった。

当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、鍾愛した。養育係としてプランタジネット家男系最後の生き残りであるマーガレット・ポールが任命された。

1519年、ヘンリー8世は庶子のヘンリー・フィッツロイが生まれると、この男児をただちにリッチモンド公爵に叙している。ヘンリー8世の父ヘンリー7世が即位前にリッチモンド伯爵だったことからもわかるように、この叙爵は庶子に対するものとしては破格のもので、この子が正嫡でないことへの無念さがそこには見て取れる。一方メアリーに対しては、プリンス・オブ・ウェールズに相当する王女として「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号が用いられたものの、そこに世継ぎとしての法的な根拠は付与されなかった。

ヘンリー8世はメアリーの幼児期を通して常に、メアリーと然るべき名家の男子との縁談を模索していた。当初はフランスの王子を検討し、2歳の時にフランソワ1世の王子フランソワと婚約したが破談になった。1522年、6歳の時に16歳年上の従兄である神聖ローマ皇帝カール5世と婚約したが、再び破談となった。再度フランスと、ということでフランソワ1世の第2王子アンリ(のちのアンリ2世)との婚約を模索したが首尾よく行かなかった。しかし、少女期のメアリーは非常に美しく、魅力的であり、そのことは他国にも伝わっていたという。

メアリーが9歳になる頃には、キャサリンとの間にもうこれ以上の子はできないことが明らかな情勢となっていた。男子を切望するヘンリー8世は、寵愛するアン・ブーリンと再婚するためにキャサリンとの婚姻無効を宣言、これとともにメアリーからは世継ぎの地位ばかりか王女の身位までが剥奪されて庶子とされた(第一継承法も参照)。ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが、拒否されている。

やがてアン王妃が第2王女エリザベスを産むと、アンはメアリーに対して名目上の「プリンセス・オブ・ウェールズ」となったエリザベスへの臣従を強要したが、メアリーはエリザベスを「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱねた。怒ったアンはメアリーを強引にエリザベスの侍女の身分におとしめ、自身の叔母の監視の下、幽閉状態に置いた。アンが王妃の間を通じてヘンリー8世はメアリーとの面会は拒絶している。アンはかつての愛人だったノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに対して、メアリーを殺すつもりだと話していたことが知られている。またアンの裁判では、複数の者がメアリーの毒殺未遂があったことを証言している。

この時期、ハートフォードシャーで幽閉状態にあったメアリーは病気がちであり、養育係のポールや侍女、侍従たちと引き離された彼女にとっての唯一の相談相手かつ庇護者だったのは、神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイであった。

メアリーがヘンリー8世と再会したのはアンが処刑されたときだった。次の王妃ジェーン・シーモアとの関係は良好であった。ジェーンはヘンリー8世とメアリーが和解することを強く望んだ。ヘンリー8世の和解条件は、ヘンリー8世がイングランド国教会の長であること、そして両親の結婚が無効であることを認めることであった。当初、メアリーはこれを拒絶したが、メアリーの境遇の安定のためにシャピュイと神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の説得により、渋々この条件を受けいれた。メアリーは宮廷に戻り、かつて王女として持っていた財産と侍女らも戻され、ボーリュー城などが住居として与えられた(メアリーの前の城主はアン・ブーリンの弟のジョージだった)。ジェーンが王子エドワードを出産すると、メアリーはこの王子の洗礼の代母役を務めた。その一方で、メアリーはエリザベスと共に庶子として扱われ続けた。このことに対し、メアリーを王女の地位に戻すことを求めた反乱(恩寵の巡礼)が、かつてのメアリーの侍従であったスリーフォード男爵ジョン・ハッセーによって起こされた。ハッセーは処刑されたが、メアリーはこの件に不関与とされ、罪に問われることはなかった。

1539年、プファルツ=ノイブルク公フィリップから求婚を受けるが、プロテスタントであることから断っている。この頃、ヘンリー8世はメアリーを王妃不在時の宮廷の「女主人」として扱うようになっていた。

ヘンリー8世が晩年に6番目の王妃としたキャサリン・パーは、家族の絆を大切にすることに心を砕き、まだ幼少のエドワードとエリザベスを自らのもとで養育するとともに、4歳年下の「娘」のメアリーにも心を砕いた。こうした努力が実り、健康を害して近い将来の死を悟ったヘンリー8世は、エドワードがまだ幼くひ弱な体質であることを危惧して、1543年に王位継承法を改正しメアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権を与えた(第三継承法も参照)。しかし「プリンセス」の称号は復活させず、「レディ」の称号のままであった。果してヘンリー8世はその翌年に死去し、まだ9歳のエドワード6世が即位した。

エドワード6世の死と女王即位

エドワード6世はその短い治世を通じて、異母姉で自らの推定相続人たるメアリーに対してカトリックの信仰を放棄するよう促し続けたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶し続けた。メアリーはエドワード6世の在位中は、ほとんど宮廷に赴くことはなかった。しかしこれは、メアリーの王位継承権が再び危ういものとなることを意味した。病弱のエドワード6世は即位から6年後には、もう回復の見込みがないほど病床に伏す身となっていた。彼が後継者として指名したのは、父ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫で従姪にあたるジェーン・グレイだったが、その背後にはこの直前に自身の子ギルフォードをジェーンと結婚させていた野心家のノーサンバランド公ジョン・ダドリーの暗躍があった。

エドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書き通りジェーン・グレイを女王に推戴した。ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束しようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーはノーフォーク公トマス・ハワードに匿われ、ロンドンを脱出する。その間に7月10日にはジェーンがロンドン塔に入城し、その王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日にノリッジで即位を宣言した。すると、メアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は、逆に惨敗を喫してしまう。これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。ノーサンバランド公とその子ギルフォードは、ジェーン・グレイとともに身柄を拘束された。こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王となった。

メアリーを支持する民衆がこのように蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いて、プロテスタントであるという理由で従姪のジェーンが後継者に指名されていたことから、それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公の傀儡になることを危惧したためといわれている。エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を煽ったメアリーの作戦勝ちだった。そして彼女は「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」になったのである。

宗教政策

敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰した。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた。処刑された者の中には、トマス・クランマー、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがいる。

フェリペ2世との結婚

母方からスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多く、トマス・ワイアットらがケントでエリザベスを王位に即けることを求めて蜂起する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。この乱に連座する形で、ジェーン・グレイらを処刑している。この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即けることを旗印にしたものだった。

メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。

この結婚によって、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになった(カレー包囲戦)。

悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその死期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、崩御の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。

メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で崩御した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。

その後、彼女はウェストミンスター寺院へ埋葬され、その墓は後で死んだエリザベスと共有された。彼女たちの墓にはラテン語で Regno consortes & urna, hic obdormimus Elizabetha et Maria sorores, in spe resurrectionis」(王国と墓を共有したエリザベスとメアリー、二人の姉妹が復活の希望を抱いてここで眠る。)と刻まれている。

修正主義による再評価

近年、ピューリタン寄りでリベラルな従来の歴史観を批判する歴史修正主義によって、メアリー1世の治世に対する極度に否定的な見方は緩みつつある。新しい角度からの視点では次のように評価されている。

メアリー1世は宗教改革に逆行してカトリックへの復帰を目指し、その過程で多くのプロテスタントを処刑したことが非難されてきた。しかし宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと考えられる。エドワード6世死去の時点では、教養ある貴族やジェントリ階層は伝統的な宗教慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する教区の聖職者もプロテスタントの革命的な改革やその教義を理解しなかった。カトリックへの復帰がさしたる抵抗なく行われたのはこのためだといえる。メアリー1世の治世がもし長ければ、イングランドがプロテスタント国家にならなかった可能性は高い。

フェリペとの結婚は、スペインによる属国化を招きかねなかったとして非難されてきた。しかし当時はテューダー家の血を引く者のほとんどが女性であり、また国内貴族との結婚はジェーン・グレイの例にも見られるように、貴族間の派閥争いや王家乗っ取りを許すおそれからはばかられたという事情があった。婚姻時の取り決めでも、フェリペのイングランド共同王としての資格はメアリーとの結婚期間のみに限定されており、イングランド王位の継承権はフェリペとメアリーの間の子のみに認められており、イングランドの独立性は充分に考慮されていた。

クイーン・メアリー

メアリーという名の「クイーン」は、他にも3人がほぼ同時代のブリテンにいた。

  • メアリー・テューダー
    フランス王ルイ12世の王妃(1514年)。ルイ12世との死別後、兄のイングランド王ヘンリー8世の寵臣・初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンと再婚するが、1533年に死去するまでその称号は「ダッチェス・オヴ・サフォーク」(サフォーク公爵夫人)ではなく「クイーン・オヴ・フランス」(フランス王妃)のままだった。後にメアリー1世とイングランド王位を争って破れたジェーン・グレイは、このメアリー・テューダーとチャールズ・ブランドンの孫娘にあたる。
  • メアリー・オブ・ギーズ
    スコットランド王ジェームズ5世の王妃(1538年 - 1542年)。ジェームズ5世との死別後も、生後6日でスコットランド女王となった娘のメアリー・ステュアートの摂政として1560年に死去するまで「クイーン・ダウェジャー」(王太后)だった。
  • メアリー・ステュアート
    スコットランド女王(1542年 - 1567年)。この間フランス王フランソワ2世の王妃(1559年 – 1560年)としてもクイーンだった。

メアリー女王、メアリー1世に限っても2人、メアリー・テューダーに限っても2人が存在することになる。

主な小説

  • ヴィクトル・ユーゴー『マリー・チュードル』
  • Carolyn Meyer Mary, Bloody Mary
  • Carolyn Meyer Beware, Princess Elizabeth
  • Jean Plaidy In the Shadow of the Crown, Three River Press
  • ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』近代文芸社
  • ヒラリー・マンテル 『鏡と光』

補注

参考文献

  • 石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』中央公論社
  • 石井美樹子『薔薇の冠〜イギリス王妃キャサリンの生涯』 朝日新聞社
  • 岩井淳/指昭博(編)『イギリス史の新潮流 修正主義の近世史』彩流社 2000年
  • 小西章子『華麗なる二人の女王の闘い』小学館
  • ヒバート『女王エリザベス(上)』原書房 ISBN 4-562-03146-8
  • Nichols, J. G. (ed.), Chronicles of Queen Jane and Two Years of Queen Mary, Camden Society, 1850, rep. 1968.
  • Nichols, J. G. (ed.), Diary of Henry Machyn, Camden Society, 1848, rep. 1968.
  • R. Tyler (ed.), Calendar of Letters, Dispatches and State Papers Relating to the Negotiation between England and Spain, 1969-78, vol. 11.
  • Weir, Alison (1996), Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, London: Pimlico. ISBN 0-7126-7448-9.
  • Waller, Maureen (2006), Sovereign Ladies: The Six Reigning Queens of England, New York: St. Martin's Press, ISBN 0-312-33801-5.
  • Porter, Linda (2007), Mary Tudor: The First Queen, London: Little, Brown. ISBN 978-0-7499-0982-6.
  • Whitelock, Anna (2009), Mary Tudor: England's First Queen, London: Bloomsbury. ISBN 978-0-7475-9018-7.
  • Duffy, Eamon (2009), Fires of Faith: Catholic England Under Mary Tudor, New Haven, CT: Yale University Press. ISBN 0-300-15216-7.
Collection James Bond 007

関連項目

  • ブラッディ・マリー メアリー1世にちなんで名付けられた、ウォッカをベースにトマトジュースを使ったカクテル。



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ヘンリー8世 (イングランド王)


ヘンリー8世 (イングランド王)


ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝第2代のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド卿、後にアイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。百年戦争以来の慣例に従い、フランス王位の要求も継続した。

6度の結婚に加えて、カトリック教会からのイングランド国教会の分離によって知られる。ローマ教皇庁と対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となった。だがローマによる破門の後もカトリックの教義への信仰は失わなかった。また、ウェールズ法諸法によって、イングランドおよびウェールズの統合を指導した。

1513年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と連合して、1544年には神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世と連合してフランスを攻めるが、どちらもハプスブルク家からの援助は最小限であり、膨大な戦費に堪えられず失敗に終わった。

絶頂期においては、魅力的で教養があり老練な王だと同時代人から見られ、ブリテンの王位についた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者であると描かれている。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動した。薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。そのため6度結婚し、イングランドにおける宗教改革を招いた。次第に肥満して健康を害し、1547年に崩御した。晩年には好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている。後継者は息子のエドワード6世であった。

生涯

出生

ロンドン郊外のグリニッジにあったプラセンティア宮殿で、ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として誕生した。兄弟姉妹には兄アーサー(プリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレット(スコットランド王ジェームズ4世、アンガス伯アーチボルド・ダグラス、メスヴェン卿ヘンリー・ステュアートに嫁ぐ)、妹メアリー(フランス王ルイ12世、初代サフォーク公チャールズ・ブランドンに嫁ぐ)がいる。

1493年にまだ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城の城主、五港長官に任命された。翌1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。ヘンリーは一流の教育を受け、ラテン語およびフランス語は堪能で、イタリア語も多少は話した。王位に上がる予定ではなかったため、幼少期の詳細は知られていない。

1501年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の末子キャサリン・オブ・アラゴンと結婚していた兄アーサーが婚儀の20週後に急死し、ヘンリーはコーンウォール公および王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)となった。兄の妻と結婚することは教会法上禁止されていたが、イングランドとスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合)の関係を保つため、ローマ教皇からの許可を得た後で、ヘンリーはキャサリンと婚約させられた。兄の薨御の時点でヘンリーはまだ10歳であり、結婚は先送りされた。その後、キャサリンの母イサベル1世が没し、スペインでの王位継承問題も絡んで事態は複雑化したが、キャサリンはスペインの大使としてイングランドにとどまった。ヘンリーは14歳になり結婚できる年齢となったが、結婚に抵抗した。

初期の統治

父王ヘンリー7世の崩御によって1509年にヘンリー8世として即位、2ヶ月後にキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚式を挙げた。当初は政治には関心を示さず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教リチャード・フォックスを重用していた。

翌1510年に、同様に父に仕えた重臣リチャード・エンプソンエドマンド・ダドリーを逮捕した。2人は反逆罪で処刑され、障害となる人物をこのように処理するのがその後のヘンリーの習慣となった。1511年ごろからヘンリーの全幅の信頼を受けたのが、トマス・ウルジーであった。ウルジーはヘンリーの幼少期の監督係も務めていたが、教会内ではヨーク大司教を経て枢機卿に登り、大法官の職について権勢をふるった。

1521年5月、バッキンガム公エドワード・スタッフォードを反逆罪で処刑した。ヘンリー8世はマルティン・ルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、同年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(ラテン語: Fidei defensor)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。ちなみに「信仰の擁護者」の称号はイングランド国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現在のイギリス国王チャールズ3世の称号の一つにもなっている。

キャサリンは死産の後、王子を生んだが夭折し、流産の後、1516年にようやくメアリー王女(後のメアリー1世)を出産した。王女の誕生により、ヘンリーとキャサリンの関係は多少持ち直したが、良好とはいえなかった。ヘンリーは多くの愛人を持ち、エリザベス・ブラントによって庶出の息子ヘンリー・フィッツロイをもうけた。ヘンリー・フィッツロイはヘンリーに認知された唯一の庶子であり、初代リッチモンド公およびサマセット公となり、後に結婚したが子をなさないまま死んだ。そのほかにもヘンリーは私生児をもうけたと噂されるが、認知されなかったために確証はない。

フランスおよびハプスブルク家との関係

ヘンリー8世が即位した時、フランスやハプスブルク家と組んだカンブレー同盟戦争で、ヴェネツィア共和国に対し優勢であった。ヘンリーはフランスのルイ12世と友好関係を結ぶ一方で、舅のアラゴン王フェルナンド2世と対フランス条約を結んだ。1511年に教皇ユリウス2世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世らと神聖同盟を結成するとヘンリーはこれに加わり、カンブレー同盟戦争ではスペインと連合してフランスのアキテーヌを攻めたが失敗に終わった。

1513年にはヘンリー自ら軍を率いてフランスに攻め入ったが、フランスと同盟を結んでいた義兄のスコットランド王ジェームズ4世がイングランドに攻め込んだ。だが王妃キャサリンの指導するイングランド軍にフロドゥンの戦いで敗れ、ジェームズ4世は戦死した。教皇はフランスに融和的なレオ10世に代わり、イングランドの財政は窮乏していたため、ヘンリーはルイ12世と講和を結び、妹のメアリーとの結婚を整えた。メアリーが嫁いで数か月後にルイ12世は亡くなり、メアリーはヘンリーの親友で寵臣のチャールズ・ブランドンと再婚した。

神聖ローマ帝国君主とスペイン(カスティーリャ=アラゴン)君主の2人の祖父の崩御によって、義理の甥にあたるカール5世が両国の玉座に登り、ルイ12世の崩御によってフランソワ1世がフランス王位に登った。トマス・ウルジーはオスマン帝国の脅威に対して西ヨーロッパの諸国を団結させようと慎重に外交を進めた。フランスとイングランドの同盟が成立してロンドン条約が結ばれ、1520年にヘンリーとフランソワは大陸にあるイングランド領のカレー近郊で会見し、豪華な饗宴、音楽会、騎馬試合が催された(金襴の陣)。だがイングランドとフランスの平和は長続きせず、翌1521年の第三次イタリア戦争でカール5世がフランスと戦った時には、ヘンリーは当初仲介しようとしたが、後にはカール5世を助けて参戦し、北フランスを攻めて領土回復を図った。だが得るものは少なく、1525年にフランスと再び講和を結んで戦争から離脱した。

離婚問題とカトリック教会からの破門

ヘンリーは王妃キャサリンの侍女メアリー・ブーリンと関係を持っていた。メアリー・ブーリンの2人の子はヘンリーの子である可能性があるが、ヘンリー・フィッツロイのように認知はされなかった。始まってまだ日の浅いテューダー朝には正統性に対する疑義があり、王位継承権を主張するかもしれないライバルの貴族が多数存在したため、ヘンリーは強力な男の世継ぎを欲した。また、当時のイングランドでは庶子の権利が大幅に制限され、たとえ認知されたとしても王位につくことは難しかった。このような理由から、ヘンリーは6度の結婚を繰り返すこととなった。世継ぎとなる嫡出の王子が生まれないために、ヘンリーは王妃キャサリンに愛想をつかし、その侍女でメアリー・ブーリンの姉妹のアン・ブーリンを求めるようになった。だがアンはメアリーと違って愛人となることを拒否し、正式な結婚を求めた。

ヘンリーには3つの選択肢があった。1つ目は認知していた庶子ヘンリー・フィッツロイを嫡出子とすることであったが、教皇の承認を必要とし、相続の正統性への疑義を招く可能性があった。2つ目はメアリー王女を結婚させて男子を得ることであったが、メアリーは小柄で成長が遅れ、ヘンリーが生きている間に子をもうけることは難しいように見えた。3つ目の選択肢はキャサリンと離婚し、新たな妻と結婚することであった。第3の選択肢が最も魅力的に見え、ヘンリーは離婚(正確には婚姻の無効)を画策するようになった。ヘンリーの兄アーサーと短い期間ながら結婚していたキャサリンと結婚することは教会法の教義に反していたため、ヘンリーの結婚に際しては教皇が特別な赦免を与えていた。これを覆して婚姻の無効を訴えたヘンリーは、教皇クレメンス7世と対立し、イングランド国教会を分離成立させてイングランドにおける宗教改革を始めることになった。

スペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であるキャサリンとの離婚は容易ではなく、交渉に失敗したウルジーは1529年に罷免された。ウルジーのロンドンの邸宅とカントリー・ハウスはヘンリー8世によって没収され、それぞれホワイトホール宮殿、ハンプトン・コート宮殿となった。同年に宗教改革議会を召集、側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法を発布し、イングランドは「帝国」であると宣言した。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱した (English Reformation。1535年、ウルジーの後に大法官となっていたトマス・モアは改革に反対したために処刑された。そして1538年、ヘンリーは教皇パウルス3世により破門された。

キャサリンは宮廷から追放され、その部屋はアン・ブーリンに与えられた。

アン・ブーリンとの結婚

1533年にアンはヘンリーと結婚し、その年にエリザベス王女(後のエリザベス1世)をもうけた。

キャサリンは以前ヘンリーの兄アーサーと結婚していたため、ヘンリーの意を受けたカンタベリー大司教トマス・クランマーによってヘンリーとの結婚は無効であるとされた。キャサリンは故王太子の未亡人の地位に落とされ、宮廷から追放された。第一継承法でエリザベス王女がヘンリーの世継ぎとされ、キャサリンの娘であるメアリー王女は庶子の身分となり、王位継承順でエリザベスの次位に下げられ、エリザベスの侍女とされた。

その後のアンは流産や想像妊娠を経るも、男子の誕生を求めるヘンリーの期待に応えることが出来ず、その強い性格と優れた知性で政治に介入し、多くの敵を作った。

アン・ブーリンの処刑

1536年、元王妃キャサリンが病死し、アンは再び妊娠した。ヘンリーが男子誕生を強く望んでいたため、男子を産まなかった場合に自分の立場が著しく不利になることをアンはよく知っていた。だが馬上槍試合でヘンリーが落馬し、一時意識を失い死の可能性もあったという知らせを聞いたアンは、衝撃を受けて流産した。政治に介入し続けるアンおよびブーリン家は多くの敵を作っており、アンの母方の伯父のノーフォーク公トマス・ハワードまでもアンの態度を快く思わず、王の寵臣トマス・クロムウェルの影響下でアンの政敵は力を増した。メアリー王女は成長して支持者たちは増え、かつての王妃キャサリンの支持者たちもそこに加わった。2度目の離婚はいまや現実の可能性となった。

アンが再び流産した直後にその没落は始まった。アンの実弟ジョージ・ブーリンを含む5人の男が王妃との姦通罪で逮捕され、アンもまた姦通罪、近親相姦罪、魔術を用いた罪で逮捕され、処刑された。その裁判の正当性は当時でも疑問とされ、冤罪であると信じられている。

ジェーン・シーモアとの結婚

1536年のアンの処刑の翌日、ヘンリーはその侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、10日後に結婚した。1537年にジェーンはエドワード王子(後のエドワード6世)を生んだが、ジェーンは産褥死した。ヘンリーは悲嘆にくれたが立ち直り、クロムウェルに次の王妃を探させた。

ヘンリーはウェールズをイングランドに統合し、エドワード王子を世継ぎとする一方、第二継承法でメアリー王女およびエリザベス王女を庶子の身分に落として王位継承権を奪った。

1539年にカール5世とフランソワ1世が同盟を結び、パラノイアとなったヘンリーは神聖ローマ帝国とフランスの連合による侵略を恐れるようになった。ヘンリーは修道院から没収した財産を使って沿岸部の防備を固め、ヨーロッパ大陸に同盟者を求め、新たな王妃をヨーロッパ大陸に探すようになった。

アン・オブ・クレーヴズとの結婚

クロムウェルはカール5世に対抗する有力な同盟相手となりえるユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の姉、アン・オブ・クレーヴズを王妃としてヘンリーに推薦した。宮廷画家のハンス・ホルバインが送られてアンの肖像画が描かれ、これを見たヘンリーはアンと結婚した。ホルバインがアンを美化しすぎて描いたのではないかという推測もあるが、彼はその後も宮廷で重んじられたため、肖像画は正確であった可能性が高い。

だが結婚後すぐにヘンリーは離婚を求め、アンは離婚に強く抵抗せず、結婚には床入りが伴わなかったことを認めた。アンが以前に別の男(ロレーヌ公フランソワ1世)と婚約していたことを理由にして、結婚は無効とされたが、アンは「王の妹」としての地位を得て、2軒の家と十分な年金を約束されて、平和裏に王のもとを去った。ヘンリーは既に、ノーフォーク公の姪で、アン・ブーリンの従妹かつ侍女であったキャサリン・ハワードに心を移していた。何人かの宗教改革家は処刑され、クロムウェルは王の寵愛を失い、宮廷では姪を通じて権力を得たノーフォーク公などの政敵に囲まれるようになった。1540年、クロムウェルは大逆罪などで逮捕され処刑された。

キャサリン・ハワードとの結婚

1540年にヘンリーはキャサリン・ハワードと結婚した。ヘンリーは若い王妃に夢中になり、処刑したクロムウェルの土地とおびただしい宝石をキャサリンに与えた。だがキャサリンは以前に婚約し、性的関係を持っていたフランシス・デレハムを秘書として雇った。王の不在中にキャサリンは姦通罪と反逆罪で告発され、裁判にかけられた。トマス・クランマーが取り調べにあたり、証拠を集めて王に提示した。当初、ヘンリーは王妃の姦通を信じなかったが、デレハムは自白した。キャサリンがデレハムとのかつての婚約を認めていれば、ヘンリーとの結婚が無効になるだけで済んでいたはずであるが、キャサリンは王との結婚後にデレハムに姦通を強制されたと証言した。一方、デレハムはキャサリンがトマス・カルペパーと姦通を犯していたと証言した。デレハム、カルペパー、キャサリン、手引きをした侍女のジェーン・ブーリンは、1542年および1543年に処刑された。

1542年に、イングランドのすべての修道院は解散され、財産の没収は完了した。

フランス出兵と「乱暴な求愛」

キャサリン・オブ・アラゴンとアン・ブーリンが共に亡くなったため、ヘンリーとカール5世の関係は改善し、ヘンリーはフランスへの出兵を考えるようになった。だがその前にカトリック勢力が強く、フランスと「古い同盟」を結ぶスコットランドの脅威を除くため、結婚による同君連合を考え、甥にあたるスコットランド王ジェームズ5世の娘で世継ぎのメアリー王女と、自らの息子のエドワード王子とを結婚させようとした。戦争を伴ったこの一連の行動は「乱暴な求愛」と呼ばれた。1542年、スコットランドはソルウェイ・モスの戦いで敗れ、直後にジェームズ5世は急死し、スコットランドはグリニッジ条約をイングランドと結んで結婚に合意した。

1544年に第五次イタリア戦争でカール5世とヘンリーは連合してフランスに攻め込んだ。モントルイユとブローニュ=シュル=メールを同時に攻め、ヘンリーは後者の包囲戦の指揮をとり陥落させた。だが、カール5世の求めに反してパリには進軍しなかった。カール5世の軍は勝利を収められず、カール5世は一方的にフランスと講和した。ヘンリーはフランスで孤立したが、英仏両国とも戦費に窮乏して講和した。ブローニュは後に補償金と引き換えにフランスに返却された。

スコットランドがグリニッジ条約を破棄したため、1544年にヘンリーはスコットランドに攻め込み、エディンバラを焼き討ちした。

キャサリン・パーとの結婚

1543年に、ヘンリーは富裕な未亡人キャサリン・パーと6度目にして最後の結婚をした。キャサリンは教養の深いプロテスタントであり、エドワード王子の教育を任された。また、メアリー王女およびエリザベス王女を庶子の身分から王女の身分に戻し、エドワード王子の下位ながら王位継承権を復活させた(第三継承法)。

肉体の衰えと崩御

晩年、ヘンリーは著しく肥満し、馬上槍試合で負った古傷の後遺症にも苦しみ、健康は悪化する一方であった。1547年にヘンリーはホワイトホール宮殿で崩御した。遺体はウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に埋葬された。9歳の王子エドワードが王位を継ぎ、エドワード6世となった。ヘンリーの崩御後、子女3人が王位についたがいずれも子をなさなかったため、やがてテューダー朝は断絶し、スコットランドに嫁いだ姉マーガレットの曾孫、ステュアート朝のジェームズ6世/1世によるスコットランドとイングランドの同君連合(王冠連合)が成立することになる。

人物像

ヘンリーはルネサンス人としてのイメージを作り上げ、その宮廷は学問と芸術と金襴の陣に代表される華やかな奢侈の中心となった。音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。自ら作曲したとされる楽譜(合唱曲 "Pastime with Good Company" など)が現存する。情熱的なギャンブラーであり、馬上槍試合や狩猟などスポーツにも優れていた。一方でヘンリーはキリスト教にも関心があった。クライスト・チャーチ、ハンプトン・コート宮殿、ホワイトホール宮殿、トリニティ・カレッジなど、現存する多くの著名な建物の建築や改修にも関わった。

ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解した。多くの本に注釈をつけ、自らも著作を行った。教会改革の支持を集めるためにパンフレットや講義や演劇を用意させた。

6フィート(約182cm)以上の身長と広い肩幅を備え、スポーツに秀でていた。馬上槍試合や狩猟を催しては、荘厳な鎧を纏って外国大使や領主たちの前に姿を現し、強い印象を与えようとした。だが馬上槍試合で怪我をしてからは著しく肥満したため、廷臣たちもこれをまねて太って見える服装をし始めた。晩年には過食により著しく健康を害した。

統治

テューダー朝の君主は強い権力を有し、外交、宣戦布告、貨幣の鋳造、恩赦、そして議会の招集と解散の権限があった。しかしカトリック教会からの離脱の際に明らかになったように、法律上および財政上の制約を受けており、貴族やジェントリ(郷紳)からなる議会と協力して統治を行わざるをえなかった。ヘンリー8世は官職任命権を用いて、枢密院のような公的な組織と私的な腹心からなる宮廷を運営した。宮廷人の盛衰は激しく、2人の妻に加えて多くの貴族、役人、友人、聖職者らがヘンリーによって処刑された。

1514年から1529年まで内政と外交を取り仕切ったのは、枢機卿であり大法官であったトマス・ウルジーであった。ウルジーは豪奢な館を構えて、王の代理として振舞い、中央集権化を進め、星室庁を強化して刑事裁判を改革した。だが王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚交渉に失敗したため王はウルジーに失望し、長年の奢侈で国庫は空となっていた。ウルジーは逮捕され、病死した。

その後、ウルジーに代わって政府を司ったのはトマス・クロムウェルであった。大陸から戻って法律の専門家としてウルジーの部下となり、その没落後に台頭した。クロムウェルは対話と合意によって行政改革を進めた。多くの役職について、政府の機能を王室から公的な部局に移したが、改革にはヘンリーの支持を必要としたため、一様な移行とはならなかった。修道院解散で修道院の財産を没収して王室に移し、多くの政治機能を小規模で効率的な枢密院に移し、王の財政と国家の財政を分離した。だがアン・オブ・クレーヴズとの結婚への関与がその立場を弱め、次の王妃キャサリン・ハワードの父方の伯父で政敵のノーフォーク公の前に敗れ、 1540年に処刑された。

その他、ヘンリー8世は郵政長官のポストを新設し、ロイヤルメールの起源となった。

財政

ヘンリー8世の治世の財政はほぼ破綻状態であった。父王から相続した豊かな富は、宮廷での奢侈と豪奢な建築に費やされた。テューダー朝の君主は、政府の支出を王個人の収入で賄わなければならず、議会によって承認されなければならない王室領からの税金に頼っていた。治世を通じて収入はほぼ一定であったが、インフレーションと大陸での戦費のために支出に対し不足した。父王と違い、しばしば議会に戦費の支出を依頼しなければならなかった。一方、修道院解散とその財産の没収により、新たな収入を得た。ウルジーは銀本位制から金本位制に移行し、貨幣の質を下げ、クロムウェルは貨幣の質をさらに大きく下げた。名目上の利益は大きかったが、経済は打撃を受け、激しいインフレーションを招いた。

宗教改革

ヘンリー8世は、イングランドをカトリックの国から聖公会(イングランド国教会)の国に変貌させた宗教改革の開始者であると一般には考えられている。1527年までヘンリーは敬虔なカトリック信者であったが、王妃キャサリンとの婚姻の無効を教皇に願うも、王妃の甥のカール5世の影響力もあってこれを果たさず、ついには教皇権からの独立に向かったと考えられている。

1532年から1537年にかけ、ヘンリーはイングランド国王と教皇の関係の変革と、イングランド国教会の創設に関わる数々の法令を発布した。イングランド国内の法治を教皇から独立させた上告禁止法、国王をイングランド国教会の唯一最高の首長とした国王至上法などである。ヘンリーはトマス・クランマーをイングランド国教会最高の地位としたカンタベリー大司教につけ、クランマーはこれらの改革を支持した。一方で大法官であったトマス・モアや、ロチェスターの司教にして司祭枢機卿であったジョン・フィッシャーは反対したために処刑された。

クロムウェルによって、当初は軍事費調達の名目で小修道院解散法大修道院解散法など相次ぐ修道院解散令が発令され、800以上の修道院が解散させられ、その財産は王室に没収された。イングランドの土地の5分の1が王室に移動したと言われている。没収された不動産は後に市民に売却されて、土地の流動化につながった。その後も1535年の宗教家鎮圧法などのカトリック信者を抑制し教皇の権力を削ぐ法令が幾度も発令され、カトリック信者たちはヘンリーの娘メアリー1世の世まで静かに身をひそめた。

軍事

スコットランドとの国境に近いベリック・アポン・ツイードおよびカーライル、そして大陸にあるイングランドの領地カレーにおかれた守備隊を除けば、イングランドの常備兵はわずか数百しかいなかった。1513年にフランスに攻め入った時の3千の兵は鎌 (bill兵と弓兵であり、他国は銃兵やパイク兵に移行しようとしていた。だがヘンリーの兵の鎧や武器は新品であり、大砲や攻城砲も備えていた。1544年の侵略の時も同様であった。

ヘンリーは王立海軍の創始者の一人であるとされ、特に軍艦に大砲の搭載を始めたことで知られる。個人的に軍艦の設計に関わり、母港とドックを持つ常設海軍を創設した。ヘンリーの時代に、海軍の戦術は接舷しての移乗戦闘から砲撃戦闘へと進化した。軍艦は50隻に増加し、後にアドミラルティとなる部局を創設して海軍の維持と監督を行わせた。

カトリックからの離脱により、フランスや神聖ローマ帝国のカトリック勢からの侵略の脅威に直面したため、修道院から没収した財産を当てて、イングランド東岸と南岸に防御のための砦を築いた。

アイルランド

ヘンリーの治世まで、アイルランド島は教皇の名目上の宗主権の下にあり、 アイルランド卿を名乗るイングランド王に与えられた知行であると見なされていた。アイルランドの大部分の統治は在地の貴族に任され、ペスト(黒死病)や薔薇戦争の影響もあって、アイルランドにおけるイングランドの勢力は小さくなっていた。アイルランド貴族たちは政争を繰り返し、外国の部隊をアイルランドに呼び寄せ、イングランド王を僭称するヨーク朝の末裔をかつぐ動きもみられ、ヘンリーは支配に苦しんだ。

カトリックからのイングランド国教会の分離を機に、ヘンリーはアイルランドが教皇から独立した王国であると宣言し、アイルランド議会によってアイルランド王に推戴された。アイルランド貴族は土地をいったんヘンリーに献上した後に、改めて知行として与えられることになった。この後、イングランドは武力をもって反乱を鎮圧し、直接支配と入植を進めた。

結婚

  1. キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1487年 - 1536年):1509年結婚、1533年離婚
    はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリー1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
  2. アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507年? - 1536年):1533年結婚、1536年離婚
    エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後に姦通罪と近親相姦の罪で ロンドン塔で刑死。
  3. ジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509年? - 1537年):1536年結婚、1537年死去
    エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。ヘンリーの後継者となるエドワードを出産したが、産褥熱により死亡。
  4. アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves, 1515年 - 1557年):1540年結婚、同年離婚
    ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。
    肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
  5. キャサリン・ハワード(Katherine Howard, 1521年? - 1542年):1540年結婚、1542年離婚
    アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
  6. キャサリン・パー(Catherine Parr, 1512年? - 1548年):1543年結婚、1547年夫と死別
    学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。結婚3年半目にヘンリーと死別。

子女

3人の子が連続して王位に就いたが、いずれも子をなさなかったためテューダー朝は断絶し、以降の王にはヘンリー8世の血は流れていない。

  • 最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間には娘1人だけが成育した。
    メアリー1世(1516年 - 1558年) - イングランド女王(在位1553年 - 1558年)、1554年にスペイン王フェリペ2世と結婚
  • 2番目の妻アン・ブーリンとの間には娘1人だけが成育した。
    エリザベス1世(1533年 - 1603年) - イングランド女王(在位1558年 - 1603年)
  • 3番目の妻ジェーン・シーモアとの間には息子1人をもうけた。
    エドワード6世(1537年 - 1553年) - イングランド王(在位1547年 - 1553年)
  • この他、非嫡出子1人を認知している。
    ヘンリー・フィッツロイ(1519年 - 1536年、エリザベス・ブラント所生) - 初代リッチモンド公爵およびサマセット公爵

その他、認知はしなかったが非嫡出子だと疑われる子が数名いる。

Collection James Bond 007

兄弟姉妹

  • 兄アーサー - 王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)であったが、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚直後に急死。キャサリンはその後、ヘンリーの最初の王妃となる。
  • 姉マーガレット - スコットランド王ジェームズ4世に嫁ぐ。その子孫はステュアート朝をテューダー朝に代わるスコットランドとイングランド共通の王朝とし、さらにその女系子孫から現在のイギリス王室につながるハノーヴァー朝が始まる。
  • 妹メアリー -フランス王ルイ12世に嫁いだ後、ヘンリーの寵臣チャールズ・ブランドンに嫁ぐ。ブランドンとの間の孫に、エドワード6世の後に9日間だけ王位を継いだジェーン・グレイがいる。

系図


ヘンリー8世を扱ったフィクション

  • 『ヘンリー八世』(戯曲、ウィリアム・シェイクスピア)
  • 『ヘンリー八世』(オペラ、カミーユ・サン=サーンス)
  • 『アンナ・ボレーナ』(オペラ、ガエターノ・ドニゼッティ)
  • 『王子と乞食』(小説、マーク・トウェイン)
  • 『ブーリン家の姉妹』(小説、フィリッパ・グレゴリーの小説) - 映画化もされている
  • デセプション』(映画)
  • 『ヘンリー八世の私生活』(映画)
  • 『1000日のアン』(映画)
  • 『わが命つきるとも』(映画)
  • 『ヘンリー八世の六人の妻』(リック・ウェイクマンが1973年に発売したソロアルバム)
  • キング・オブ・ファイヤー』(2003年放送のテレビシリーズ)
  • 『THE TUDORS〜背徳の王冠〜』(2007年から放送のテレビシリーズ)
  • ウルフ・ホール』(小説、ヒラリー・マンテル、2009年)
  • 罪人を召し出せ』(小説、ヒラリー・マンテル、2012年)
  • 鏡と光』(小説、ヒラリー・マンテル、2020年)
  • 『ウルフ・ホール』(ヒラリー・マンテルの小説『ウルフ・ホール』と『罪人を召し出せ』に基づくテレビドラマ、2015年)
  • 『シックス・ザ・ミュージカル Six the Musical』(ミュージカル)(sixとはヘンリー8世を巡る6人の女性)
  • 『セシルの女王』(漫画、こざき亜衣、2021年)

脚注

関連項目

  • 聖職者服従法
  • 反逆法 (1534年)
  • 恩寵の巡礼
  • 統監
  • ヘンリー8世君 - 原題は ”I'm Henery the Eighth, I Am”。1910年にイギリスのコメディアンハリー・チャンピオンが、6回も結婚したヘンリー8世を茶化す歌詞を酷いコックニー訛りで歌い流行歌となった。1965年にイギリスのハーマンズ・ハーミッツがシングルを出し、全米1位の大ヒットになった。

外部リンク

  • ヘンリー8世の作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
  • ヘンリー8世の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
  • ヘンリー8世 - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)
  • ヘンリー8世の著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library(英語)
  • "ヘンリー8世の関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ヘンリー8世 (イングランド王) by Wikipedia (Historical)


メアリー・J. ブライジ


メアリー・J. ブライジ


メアリー・J. ブライジ(Mary Jane Blige、1971年1月11日 - )は、アメリカ合衆国の女性R&B歌手・女優。「クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウル」と称され、「ニュー・ジャック・ディーヴァ」、「ニュー・チャカ(チャカ・カーン)」、「ニュー・アレサ(アレサ・フランクリン)」とも形容される。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第100位。

「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第78位。

2018年1月11日にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに殿堂入りした。

2023年1月に発表されたローリングストーン誌の選ぶ「オールタイム・グレイテスト・シンガー200」(The 200 Greatest Singers of All Time)では、第25位となった。

2024年4月21日、米国・Rock & Roll Hall Of Fameより、『2024年度ロックの殿堂 パフォーマー部門』での殿堂入りが発表された。

来歴

1971年-1986年:生い立ち

1971年1月11日、ニューヨークのサウス・ブロンクスで、ジャズミュージシャンの父・トーマスと学校教師の母・コラの間に生まれる。生後間もなく家族と共にジョージア州サヴァナ市に移住。メアリーが4歳のときに両親は離婚し、母と姉弟と4人で暮らす。5歳の時にニューヨーク州に戻りヨンカーズ市のプロジェクト(住宅斡旋プロジェクト)に住み、7歳の頃から教会の聖歌隊で歌い始め、母の影響でオーティス・レディング、サム・クック、アイズレー・ブラザーズ、グラディス・ナイト、アル・グリーン、スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、チャカ・カーン、メイヴィス・ステイプルズなどの60年代-70年代ソウルを聴いて育つ。教会の聖歌隊のソロ・パートを務めたり、高校のタレント・ショウでは歌も披露したりしていたが、気晴らしのために麻薬を使用するなどして結局落第する。

なお、メアリーは幼い頃に知り合いの大人から児童性的虐待を受けていた過去を、のちの2009年に公の場で打ち明けている。身を守るためボクシングを少し習ったり、苦悩から逃れるために酒や麻薬に頼るようになったという。

1987年-1992年:歌手デビューまで

1987年の16歳の時にニューヨーク州ホワイト・プレインズのショッピング・モールに設置されていた録音ブースでアニタ・ベイカーの1986年のヒット・ナンバー「コート・アップ・イン・ザ・ラプチャー」(Caught Up in the Rapture)を歌い、そのデモ・テープを継父がレコーディング・アーティストのジェフ・レッドに預け、それが当時のアップタウン・レコードの社長だったアンドレ・ハレルに渡った。

そのメアリーの歌声のテープを聴いたハレルは「初めて耳にした瞬間、彼女の心の疼きとソウルを感じ」、すぐにアップタウン・レコード社にとって最年少で初の女性アーティスト契約を結ぶことになった。そして1990年にファーザーMCの「アイル・ドゥ・4・U」(I'll Do 4 U) に客演(フィーチャリング)参加した後、1991年の映画『ストリクトリー・ビジネス』のサウンドトラック収録曲「ユー・リマインド・ミー」(You Remind Me) で1992年にソロデビューする。

このデビューシングル「ユー・リマインド・ミー」が約3か月の13週間という長いチャート・インを経て1992年7月25日付のR&Bチャートで1位となり、メアリー独特の憂いや哀しみを帯びた魅力的なアルトボイスから醸し出されるある種危険な香りのする歌唱スタイルが注目された、全米はじめ世界のブラック・ミュージック・ファンがその声に惚れ込み、とりわけ男性ファンを魅了した。そのため大規模なコマーシャルを全く必要とせず、デビューアルバムを待ち望む土壌は充分に出来上がっていた。

音楽活動――アルバムデビュー以降

1992年-1994年:ホワッツ・ザ・411?

当時アップタウン・レコード社のA&Rだったショーン・パフィ・コムズがエグゼクティブ・プロデューサーを担当した待望のデビュー・アルバム『ホワッツ・ザ・411?』(What's the 411?) を1992年7月にリリース。ちなみに「411」は、米国向けの電話番号案内サービス「GOOG-411」のことである。『ホワッツ・ザ・411?』はヒップホップのビートでR&Bが歌われるスタイル(のちに「ヒップホップ・ソウル」と呼ばれことになったスタイル)を全編に亘って打ち出したアルバムで、メアリーはヒップホップ世代の新たな歌手として一躍大きな注目を浴びた。彼女のストリート感に溢れた「生の」(raw) 歌声は、アルバムのサウンドと見事に合致し、通常の落ちついたR&Bとはまた違う趣きのその心地いい乗りが若者に支持された。

特に同アルバム発売後の1stシングル「リアル・ラヴ」(Real Love)は、オーディオ・トゥーの1987年のヒップ・ホップ・クラシック「トップ・ビリン」 (Top Billin') をサンプリングした楽曲で、10月に全米R&Bチャート2週連続1位を記録する大ヒットとなった。他のシングルも、前項で述べた「ユー・リマインド・ミー」(You Remind Me) や、1993年に「レミニス」(Reminisce)、チャカ・カーンの曲のカバー「スウィート・シング」(Sweet Thing)、「ラヴ・ノー・リミット」(Love No Limit)、当時の恋人だったK-Ciヘイリーとのデュエット「アイ・ドント・ウォント・トゥ・ドゥ・エニシング」(I Don't Want to Do Anything)、1994年には「マイ・ラヴ」(My Love)と立て続けにヒットを飛ばし、アルバムは全米チャート(Billboard Hot 100)の6位、R&Bチャート(Hot R&B/Hip-Hop Songs)の1位を記録し見事プラチナを獲得(1994年末時点で300万枚を超えた)、そのR&Bとヒップホップを融合させたスタイルから「クイーン・オブ・ヒップ・ホップ・ソウル」、「ニュー・チャカ(チャカ・カーン)」、「ニュー・アレサ(アレサ・フランクリン)」と称されるようになった。アルバムの大ヒットを受けて、翌年1993年12月には本作のリミックス・アルバム『ホワッツ・ザ・411? リミックス』をリリースした。

また、1993年の映画『フーズ・ザ・マン?』のサウンドトラックに収録された「ユー・ドント・ハフツー・ウォリー」(You Don't Have to Worry)も同時期にヒットし、グランド・プバのシングル「チェック・イット・アウト」(Check It Out) にも客演参加する活動も見せた。

アルバム『ホワッツ・ザ・411?』は、1993年ソウル・トレイン・ミュージック・アワード(1993 Soul Train Music Awards)で、「Best R&B/Soul Album – Female」を受賞。メアリー本人も新人賞の「Best New R&B/Soul Artist」を受賞した。メアリーは1stアルバム『ホワッツ・ザ・411?』をのちの2003年に振り返り、「文字通り information(案内) として機能する作品ね」とインタビューに答えている。

1993年にはボビー・ブラウンのツアー「ハンピン・アラウンド・ザ・ワールド・ツアー」(Humpin' Around the World Tour)に同行し日本にも来日した。オープニング・アクトでは当時の恋人の K-Ciヘイリーとのデュエットを披露した。

1994年-1996年:マイ・ライフ

1994年11月には2作目のスタジオ・アルバム『マイ・ライフ』(My Life) をリリース。アレサ・フランクリンと比較されるほどの存在感を放ち、このアルバムもプラチナとなり全米チャート7位、R&Bチャート1位を記録した。『マイ・ライフ』も前作同様プロデュースにショーン・パフィ・コムズが関わり、他のプロデューサーはチャッキー・トンプソンハーブ・ミドルトンなどが新たに加わった。

シングルヒットは、カーティス・メイフィールドの1979年のアルバム『ハートビート』(Heartbeat) 収録曲「ユーアー・ソー・グッド・トゥ・ミー」(You're So Good To Me)をサンプリングした1stシングル「ビー・ハッピー」(Be Happy) がR&Bチャートで6位となった。

その後のシングルは、メリー・ジェーン・ガールズが1983年に出した「オール・ナイト・ロング」(All Night Long)のベースラインやフレーズを引用した「メアリー・ジェーン (オールナイト・ロング)」(Mary Jane)や、ローズ・ロイスのカバー曲の「アイム・ゴーイン・ダウン」(I'm Going Down)の他、バリー・ホワイトの1977年のファンク・ヒット曲「エクスタシー」(It's Ecstasy When You Lay Down Next to Me)をサンプリングした「ユー・ブリング・ミー・ジョイ」(You Bring Me Joy)をリリースした。また、シングルにはなっていないが、バラード曲の「ユー・ガッタ・ビリーヴ」(You Gotta Believe)でも、メアリーは高い歌唱力を実証することになった。

この2ndアルバム『マイ・ライフ』は70年代のR&Bクラシックを意識して作られ、メアリー自身が13曲書いており、真実の愛や心の安らぎを求め探して本当の自分を見つけようとするホーム・ガールの繊細な揺れる心をテーマにしたものとなっている。「クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウル」と冠されながらも、「私は普通の、歌が好きなホーム・ガール」と言うメアリー自身の女性の感情が歌われている。

のちにメアリーはこのアルバムについて、「misery(みじめ)でpain(苦悩)…あれは地獄のような苦しみのアルバムよ」と2003年に振り返っている。その背景には、プロデューサーのパフィとの確執、当時の恋人 K-Ciヘイリーとの揉め事やドラッグ依存、鬱症状などがあり、「人生の最悪期だった」とメアリーはインタビューに答えているものの、皮肉にもそうした苦しい悲痛な叫びや生の感情や魂が歌に託されている2nd『マイ・ライフ』は、メアリーのアルバムの中でも特に最高傑作に挙げる評価が多く、まぎれもないR&Bの名盤となっている。

『マイ・ライフ』の発表後は、客演参加でメソッド・マンの「アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー/ユーアー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ」(I'll Be There for You/You're All I Need to Get By) や、ジェイ・Zの「キャント・ノック・ザ・ハッスル」(Can't Knock the Hustle) などでラッパーたちとの共演で存在感を発揮し、 メソッド・マンとの客演では第38回グラミー賞(1996年2月開催)の「最優秀ラップ・パフォーマンス賞デュオ/グループ部門」(Grammy Award for Best Rap Performance by a Duo or Group)を受賞した。

1996年-1998年:シェア・マイ・ワールド

1996年2月には、1995年の映画『ため息つかせて』の挿入歌になった入魂のR&Bバラード「ノット・ゴナ・クライ」(Not Gon' Cry) がR&Bチャート5週連続1位のヒットとなった。

同時期、アップタウン・レコードのショーン・パフィ・コムズとの制作面やビジネス面での確執が決定的となったメアリーはアップタウンを離脱し、その親会社のMCAレコード(現・ユニバーサル・ミュージック)と契約を結んだ。そしてメアリー自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして、パフィの代わりにスティーヴ・スタウトを据え、他のプロデューサー陣にベイビーフェイス、ジャム&ルイス、R・ケリー、エムトゥーメ、ロドニー・ジャーキンスといったそうそうたる面々を迎えた3作目のスタジオ・アルバム『シェア・マイ・ワールド』(Share My World) を1997年4月にリリースした。

このアルバムからのシングルには、ギタリストとしてジョージ・ベンソンが客演した「セヴン・デイズ」(Seven Days)、R・ケリーとのデュエット「イッツ・オン」(It's On)、サンプリングにスタイリスティックスのスタンダード・ナンバー「ユー・アー・エヴリシング」(You Are Everything) とジェームス・ブラウンの「ペイバック」(The Payback)を使い、坂本九の「すきやき」(Sukiyaki) のメロディーラインの一部を採用した「エヴリシング」(Everything) がヒットし、前年1996年に大ヒットしたサントラのバラード「ノット・ゴナ・クライ」も収録されている。「ノット・ゴナ・クライ」は第39回グラミー賞(1997年2月開催)で「最優秀R&B女性ボーカル賞」(Grammy Award for Best Female R&B Vocal Performance)にノミネートされた。日本盤のボーナス・トラック「ナチュラル・ウーマン」は、「クイーン・オブ・ソウル」と称されたアレサ・フランクリンが1967年にヒットさせた曲のカバーで、これも1995年のサウンドトラックからである。

傑作だった前作『マイ・ライフ』にも引けを取らない3rdアルバム『シェア・マイ・ワールド』はメアリーの新たなイメージが随所に盛り込まれ、全米チャート1位(初週でも1位は自身のアルバム初)、R&Bチャート1位を記録した上、初めてUKアルバムチャートでもトップ10入りし、アメリカ国内だけで300万枚を超えるトリプルプラチナ・セールスを記録、最大のヒットアルバムとなった。1998年アメリカン・ミュージック・アワード(American Music Awards of 1998)では「Favorite Soul/R&B Album」を受賞し、第40回グラミー賞(1998年2月開催)の「最優秀R&Bアルバム賞部門」(Grammy Award for Best R&B Album)にもノミネートされた。メアリーは3rdアルバム『シェア・マイ・ワールド』について、「confusion (混乱) 」のアルバムだったと2003年時点で振り返っている。

自身初の全米ツアー「シェア・マイ・ワールド・ツアー」(Share My World Tour)も1997年から1998年にかけて行なわれ、この模様を収録した1998年リリースの初ライヴ・アルバム『ザ・ツアー』 (The Tour)では、往年のボブ・モンゴメリーが作った「ミスティー・ブルー」(Misty Blue) もカバーした。

1998年-2000年:メアリー

1998年には、ベイビーフェイスがプロデュースした「アズ」(As)をジョージ・マイケルと客演デュエット。そのシングルが1999年3月にR&Bチャート・インのヒットとなった。 その楽曲も収録された4作目のスタジオ・アルバム『メアリー』(Mary)を1999年8月にリリース。アルバム1曲目でシングルカットもされた「オール・ザット・アイ・キャン・セイ」(All That I Can Say)はローリン・ヒルがプロデュース、バッキング・ヴォーカルでも参加している。2曲目収録の「セクシー」(Sexy)には、スティーヴィー・ワンダーがマイケル・ジャクソンの1979年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』で提供した「アイ・キャント・ヘルプ・イット」(I Can't Help It)がサンプリングされている。その他のシングルは、エルトン・ジョンの1973年のナンバー「ベニーとジェッツ」をサンプリングし、エルトン自身がピアノで客演している「ディープ・インサイド」(Deep Inside)や、ダイアン・ウォーレン作詞作曲し、エリック・クラプトンとポール・ペスコがギター参加している「ギヴ・ミー・ユー」(Give Me You)や、「ユア・チャイルド」(Your Child)がヒットした。

他の収録曲は、アレサ・フランクリンや元恋人のK-Ciヘイリーとのデュエット曲もこのアルバムに収められた。プロデューサーにベイビーフェイスが参加しているが、「メアリー」というアルバム名が示すように多くの楽曲にメアリー自身が作曲、プロデュースで関わっていて、全体的に孤独感の漂うブルージーな静かなトーンとなっている。2000年夏には「ザ・メアリー・ショウ・ツアー」(The Mary Show Tour)が行なわれた。メアリーは4thアルバム『メアリー』について、「trial and error (試行錯誤) 」のアルバムだったと2003年に振り返っている。

コンサートツアーやユニセフのチャリティー・コンサート参加など多忙を極める中、2000年ソウル・トレイン・ミュージック・アワード(2000 Soul Train Music Awards)で、特別賞の「Sammy Davis Jr. Award for Entertainer of the Year – Female」、アルバム『メアリー』が「Best R&B/Soul Album – Female」を受賞し2冠に輝いた。

2000年12月に発売された日本独自企画のコンピレーション・アルバムのバラード集『バラッズ』(Ballads)には、スティーヴィー・ワンダーの「オーヴァージョイド」をカバー収録。このカバーは双方の友人であるマイケル・ジョーダンが企画し2人を引き合わせたのがきっかけで実現した。アメリカではジョーダンがイメージ・キャラクターを務めるナイキのCMで一部分が流れただけで、企画者ジョーダン本人が楽曲管理しているためシングル・リリースも不可能となっている。そのためこの曲が収録されている日本企画の『バラッズ』は世界のメアリーのファンにとっては貴重なものとなっている。

なお、メアリーがスティーヴィー・ワンダーの楽曲を初めてカバーした最初はMCAレコード系アーティストたちの1999年の企画アルバム『マイ・クリスマス・アルバム』(My Christmas Album)に収録された「想い出のクリスマス」(Someday at Christmas)で、「オーヴァージョイド」は2曲目のスティーヴィー・カバー曲である。

2000年-2002年:ノー・モア・ドラマ

アルバム『メアリー』収録直後、メアリーは新たな楽曲「ノー・モア・ドラマ」(No More Drama)をレコーディングしていた。印象的なピアノソロのイントロから始まるこの曲は、メアリーがこれまで体験してきた艱難辛苦を乗り越える「drama, pain はもうまっぴら、波乱万丈の不幸な人生はもういらない」という内省的な内容で、ジャム&ルイスが制作した綿密なサウンドに仕上がった。

2001年には、映画やドラマなど女優にも挑戦。『プリズン・ソング』に出演した。2001年6月には、第1回BETアワード(BET Awards 2001)で「Best Female R&B Artist」に選ばれるなど、確固とした地位を確立する。そして5作目のスタジオ・アルバム『ノー・モア・ドラマ』(No More Drama)を同年2001年8月にリリース。このアルバムの売上も200万枚を超えるプラチナとなり、全米チャート2位、R&Bチャート1位を記録した。

アルバムからの1stシングルはドクター・ドレーによるプロデュースの「ファミリー・アフェアー」(Family Affair)で、全米ビルボードチャート6週連続1位という大ヒットを記録し、それまでのメアリーのシングルの中で最大のヒット作となった。最初に録音した表題作シングルの「ノー・モア・ドラマ」もヒットし、アルバム全体もこのインパクトの強い2曲に代表されるように力強さを感じる作品になっている。他のシングルカットでは、ポリスの1980年の曲「ひとりぼっちの夜」(The Bed's Too Big Without You)をサンプリングした「ダンス・フォー・ミー」(Dance for Me)をリリースした。

「ファミリー・アフェアー」は、第44回グラミー賞(2002年2月開催)で「最優秀女性R&Bボーカル・パフォーマンス賞」にノミネートされ、アルバム『ノー・モア・ドラマ』も「最優秀R&Bアルバム賞」にノミネートされた。2002年には新たな楽曲を収録した再発版もリリースされ、その中の「ヒー・シンク・アイ・ドント・ノウ」(He Think I Don't Know)は、第45回グラミー賞(2003年2月開催)で「最優秀女性R&Bボーカル・パフォーマンス賞」Best Female R&B Vocal Performance)を受賞した。また2年連続でNFLスーパーボウルでのパフォーマンスを行なった。

メアリーは5thアルバム『ノー・モア・ドラマ』について、自分自身に対しての「anger(怒り)」がテーマとなり、これまで味わってきた愛憎劇に終止符を打ち、「もうこれ以上苦痛は味わいたくない、このままじゃ何も得られないから」という思いを込めて作成したものと振り返っている。

2002年2月からは、世界ツアー「ノー・モア・ドラマ・ツアー」(o More Drama Tour)が行なわれ、同年リリースされた『ノー・モア・ドラマ~ニュー・エディション』では、仲違いをしていたP・ディディ(1stアルバム『What's the 411?』と2ndアルバム『マイ・ライフ』のプロデューサーだったショーン・パフィ・コムズ)が「ノー・モア・ドラマ」の リミックス・バージョンを手がけた。このリミックスを作った時、パフィは次のメアリーのアルバムをまた一緒にプロデュースしたいとメアリーに言った。

2002年-2004年:ラヴ &ライフ

メアリーは「ノー・モア・ドラマ」のリミックス制作時のパフィ(ショーン・パフィ・コムズ)の言葉をあまり真剣には受け取っていなかったが、その2か月後、彼から電話が来て「俺はマジだぜ」と再び申し入れがあった。メアリーはその時すでに次作アルバムの制作を進めていたがパフィの熱意に押され、一旦作業を止めてパフィのプロデュースを最優先にもう一度やり直すことを決心した。確執が大きかった当時はビジネス面でパフィへの様々な疑問や不信感に満ちていたメアリーだったが、その頃パフィが口うるさくメアリーのドラッグやアルコール依存を注意したことについては善意に解釈できるようになった。

1作目と2作目のスタジオ・アルバムで大成功を収めた際のプロデューサー、P・ディディとの9年ぶりのコンビ復活によるニュー・アルバム制作のニュースが2003年に届き、春には大ヒット中だった50セントの「イン・ダ・クラブ」(In da Club)のリミックス・トラックに参加し注目された。しばらく時間をあけて6月に発表された新曲「ラヴ@ファースト・サイト」(Love @ 1st Sight)は、ア・トライブ・コールド・クエストの1992年の「ホット・セックス」(Hot Sex)をサンプリングし、フィーチャリング・ラッパーには過去にメアリーとのコラボレート作で第38回グラミー賞(1996年2月開催)の「最優秀ラップ・パフォーマンス賞デュオ/グループ部門」を受賞したメソッド・マンが採用された。

アルバムのプロデューサー陣には、パフィ傘下のバッド・ボーイズのチームの他、ドクター・ドレーやケイ・ジーが集まった。メアリーは、サウンドの原点回帰をコンセプトに、1stアルバム『What's the 411?』の2003年バージョンを作ると喧伝し。前述の先行シングル「ラヴ@ファースト・サイト」以外にも、収録曲「ホエン・ウィ」(When We)で、マーヴィン・ゲイの「アイ・ウォント・ユー」(I Want You)が鮮やかに引用されるなど、R&Bクラッシックを取り入れたプロデュースのパフィの方法論が駆使された作品となった。

その6作目のスタジオ・アルバム『ラヴ &ライフ』を2003年8月にリリース。アルバムは全米チャート1位、R&Bチャートでも1位を記録したが、売上はプラチナを獲得するも100万枚止まりでそれ以上セールスは伸びず商業的には失敗した。インパクトのある楽曲がなく期待外れの出来栄えに評論家もファンも一貫性の不足を批判した。アルバムの内容的には、シングル「ラヴ@ファースト・サイト」を始め、婚約者のでき愛に満ちたメアリーの幸福な精神面が反映されたものとなっている。

メアリーは元恋人のK-Ciヘイリーとの別離後も、ケイスマーク・ミドルトン、カール・トーマスなどとの恋仲が報じられていたが。、2000年から交際を始めていたマネージャーのマーチン・ケンドゥ・アイザックス(Martin "Kendu" Isaacs)と2003年12月7日に遂に結婚した。その結果、メアリーはマーチンの連れ子である3人の子供の継母になった(後年2016年に2人は離婚調停に入り、2018年に正式離婚することになるが、この当時は新婚で愛に満ちた日々であった)。

収録曲全体が退屈なサウンドで、目玉のシングル「ラヴ@ファースト・サイト」の最高位も全米チャートで22位、R&Bチャートで10位止まりだった6thアルバム『ラヴ &ライフ』が不評に終った後の活動としては、スティングの「ホエンエヴァー・アイ・セイ・ユア・ネイム」(Whenever I Say Your Name)や、ミッシー・エリオットとの客演が話題となった。スティングとコラボした曲は第46回グラミー賞(2004年2月開催)で、「最優秀ポップ・コラボレーション賞」(Best Pop Collaboration with Vocals)を受賞した。

2004年-2007年:ザ・ブレイクスルー

2004年には映画『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』のサウンドトラックで、エルトン・ジョンの1976年の楽曲「悲しみのバラード」(Sorry Seems to Be the Hardest Word) をカバーし、映画『シャーク・テイル』のサントラでは、客演ラッパーにウィル・スミスを据えて、シェリル・リンの1978年のディスコ曲「ガット・トゥ・ビー・リアル」(Got to Be Real) をカバーした。また数々のミュージシャンの作品への客演も続き、ノトーリアス・B.I.G.などの数々のラッパーとのコラボレーションが話題となった。

その中でも2005年には、キャシディの「アイム・ア・ハッスル」(I'm a Hustla (song))のメアリーのリミックス・バージョンが大好評となったり、人気ラッパーゲームの「ヘイト・イット・オア・ラヴ・イット」(Hate It or Love It)をカバーすると、それを聴いたゲーム本人がメアリーとコラボレートしたいと申し入れてくるなど、次作アルバムへの新たな展開があった。そしてクール&ドレーのプロデュースによりリメイクされてゲームと50セントとコラボした「ヘイト・イット・オア・ラヴ・イット」はメアリーの新曲「MVP」(MJB da MVP)として4月にリリースされた。「MVP」はアルバム収録時に改題されて「MJB・ダ・MVP」となるが、この楽曲は、これまでのメアリーのヒット曲群の印象的なフレーズの数々が次々と織り込まれているダンサブルなナンバーで、メアリーの次作アルバムへの大きな期待が高まっていた。

P・ディディ(ショーン・パフィ・コムズ)とは再び距離を置いたプロデュース陣で次作アルバムの制作が順調に行われていたが、その間、新しいスタジオ・アルバムより先に、一旦新曲を含めたベストアルバム『Reminisce』(仮題)をリリースするとアナウンスされて、ファンが戸惑う一幕もあったが、無事に2005年12月に『ザ・ブレイクスルー』(The Breakthrough)と題せられた7作目のスタジオ・アルバムをリリースした。「Breakthrough (現状突破)」というタイトルは、自分自身にとって一番大きな障壁は「自分自身」だと学び、様々な葛藤や自己分析を経て「自分自身に関して変えられない部分、変えられる部分」の両方含めて自身を愛し自信を持つことができたメアリーのその思いが込められたものとなった。そしてボイストレーニングもハードな練習を重ね、鳥が自由に羽根を羽ばたかせるように、気張らなくても声が伸び伸びと出るようになったとメアリーは語った。

9月にリリースされていた先行の2ndシングル「ビー・ウィザウト・ユー」(Be Without You)は切ないメロディーラインのラブソングで、全米シングルチャートで3位、R&Bチャートでは15週連続で1位を記録する大ヒットとなった。このR&Bチャートの記録は、ビルボード誌で一時期中断されていたR&Bチャートが1965年に再開されて以降の史上最高記録となった。

アルバム『ザ・ブレイクスルー』も2006年1月7日付の全米アルバムチャート初登場1位となり、発売1週間で驚異的な72万7,163枚の売上を記録した。これは2006年度の発売週最多売上であると同時に、女性R&Bソロ・アーティスとしては過去最高記録を樹立した。そのため、シングル「ビー・ウィザウト・ユー」、売上300万枚以上のアルバム『ザ・ブレイクスルー』と共に2006年度のビルボード誌年間R&B/ヒップホップチャートも1位を獲得した。

そして、2006年度ビルボード・ミュージック・アワード(2006 Billboard Music Awards)で最多9部門を受賞。BETアワード(BET Awards 2006)も最多2部門受賞者となった。その他、2006年アメリカン・ミュージック・アワード(American Music Awards of 2006)、第38回NAACPイメージ・アワード(38th NAACP Image Awards)などでもそれぞれ2部門受賞した。

さらには最も権威のある第49回グラミー賞(2007年開催)においては最多となる8部門にノミネートされ、その中の「最優秀R&Bアルバム賞」(Best R&B Album)、シングル「ビー・ウィザウト・ユー」に対し「最優秀R&B楽曲賞」(Best R&B Song)と「最優秀女性R&Bボーカル・パフォーマンス賞」(Best Female R&B Vocal Performance)の3部門を見事獲得した。

アルバムからの3rdシングルは、1991年のU2のロック・バラードの名曲「ワン」をカバーしボノと共にデュエットしたもので、この楽曲もヒットした。この共演の実現は、ボノが2003年にミュージケアーズ・パーソン・オブ・ザ・イヤー(第45回グラミー賞)に選ばれた際のチャリティー・ディナーでメアリーがこの曲を歌い、それを聴いたボノと意気投合したことがきっかけだった。他の収録曲もどれもシングルになるような出来栄えで、メアリーの力量が存分に発揮されたものとなった。

『ザ・ブレイクスルー』の成功後も、LL・クール・J、リュダクリス、P・ディディことパフィ(ショーン・コムズ)などの各アルバムに客演参加。2006年7月からは「ザ・ブレイクスルー・エクスペリエンス・ツアー」(The Breakthrough Experience Tour)を行ない全米やカナダを凱旋する活動をみせ、10月には、大手家電製品チェーンのサーキット・シティー・ストアーズ社と共同で、スティングなどとの客演曲を含んだCD2枚組のアルバム『メアリー・J. ブライジ&フレンズ』 (Mary J. Blige & Friends)をリリース。売上金を子供擁護団体に寄付したり、ABCテレビドラマ『ワン・ライフ・トゥ・リヴ』で自身の役でゲスト出演するなど多忙な日々を送った。

同年2006年12月には、ジョン・レジェンドとの幻のデュエット曲「キング&クイーン」(King & Queen)など、新曲4曲を含む初のグレイテスト・ヒッツ『リフレクションズ~ア・レトロスペクティブ』(Reflections (A Retrospective))を発売した。このベストアルバムの中での「マイ・ライフ」(My Life)はニュー・バージョンで、メソッド・マンと客演コラボした「アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー/ユーアー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ 」(I'll Be There for You/You're All I Need to Get By)や、ワイクリフ・ジョンと客演した「911」(911)も収録された。

2007年-2009年:グロウイング・ペインズ

メアリーは2006年公開の映画『ボビー』でブライアン・アダムス作のサウンドトラック曲「ネヴァー・ゴナ・ブレーク・マイ・フェイス」(Never Gonna Break My Faith) でアレサ・フランクリンと共演していたが、その歌唱により第50回グラミー賞(2008年2月開催)において、「最優秀ゴスペル・パフォーマンス賞」(Best Gospel/Contemporary Christian Music Performance)を受賞した。また2007年も様々なアーティストとの客演を行ない、中でもチャカ・カーンとの「ディスリスペクトフル」(Disrespectful)は、同じjく第50回グラミー賞(2008年2月開催)で、「最優秀R&Bパフォーマンス・デュオ/グループ」(|Best R&B Performance by a Duo or Group with Vocals)を受賞した。

そうした精力的な活動の中、早くも次作アルバムの制作が順調に進められ、トリッキー・スチュワートとジャジー・フェイの共同プロデュースし、ザ・ドリームが制作に参加した先行シングル「ジャスト・ファイン」(Just Fine)が2007年10月にリリースされた。このダンサブルな曲はクラブなどで評判が良かった。

そして2007年12月には、8作目のスタジオ・アルバム『グロウイング・ペインズ』(Growing Pains)をリリース。「ジャスト・ファイン」と同じプロデューサー陣で、アッシャーをフィーチャリング・アーティストに迎えた収録曲「シェイク・ダウン」(Shake Down)が話題となり、デジオン(Dejion)がプロデュースしリュダクリスとコラボした「グロウイン・ウーマン」(Grown Woman)もクラブ映えする楽曲となった。『グロウイング・ペインズ』は発売1週目は62万9000枚を売り上げ、R&Bチャートで1位、全米チャートでは2位に終わるが、翌週2008年1月12日付のチャートで1位を獲得した。

アルバム名の「Growing Pains」は、前作『ザ・ブレイクスルー』の大成功からの成長に伴う痛みといった意味合いがあり、収録13曲目の「ワーク・イン・プログレス (グロウイング・ペインズ)」(Work in Progress (Growing Pains))に象徴されるように、「私達は誰もが、制作中の未完成品、開発中 だっていうことを分かってほしい」というメッセージも込められている。メアリーは「この世に完璧な人間なんて1人として存在しないわ。誰もが Work in Progress なのよ。その状態はまさに『Growing Pains』よね。Work in Progress だからこそ、人は苦しみを伴いながら成長していくのよ」と語っていた。

アルバム発売後の2008年3月には、ジェイ・Zとのジョイント・ツアー「ハート・オブ・ザ・シティ・ツアー」(Heart of the City Tour)を廻った後、5月にはヨーロッパツアー「グロウイング・ペインズ・ヨーロピアン・ツアー」(Growing Pains European Tour)や、9月からはアメリカ国内の「ラヴ・ソウル・ツアー」(Love Soul Tour)が行なわれた。そして前作同様にメアリーの力量がいかんなく発揮された『グロウイング・ペインズ』は、第51回グラミー賞(2009年2月開催)で、「最優秀コンテンポラリーR&Bアルバム賞」(Best Contemporary R&B Album)を受賞した。

女優としても本格的な役柄で活動することとなり、映画『アイ・キャン・ドゥ・バッド・オール・バイ・マイセルフ』(I Can Do Bad All by Myself)において、「タニア」という名のナイトクラブのマネージャー役を演じた。サントラにも楽曲提供したこの映画は2009年9月に公開された。

2009年-2011年:ストロンガー・ウィズ・イーチ・ティア

2009年1月には、バラク・オバマ大統領就任イベント(2009年バラク・オバマ大統領就任式)に参加し、1998年にカーク・フランクリン、ボノ、R・ケリーらとコラボしカバー発表していた「リーン・オン・ミー」(Lean on Me) を熱唱した。

メアリーは映画『アイ・キャン・ドゥ・バッド・オール・バイ・マイセルフ』(2009年)のサントラの他にも、マライア・キャリーが出演することで話題となった映画『プレシャス』に「アイ・キャン・シー・イン・カラー」(I Can See in Color) を提供。映画『プレシャス』は、主人公が父親から性的虐待を受け2度の妊娠をさせられ、さらにHIVにも感染してしまう、といった辛く重いテーマであったため、自身も幼少期に大人から児童性的虐待を受けたことのあるメアリーは曲の依頼を受けるかどうか迷ったが、これを機に自身の過去をも公にし、自身の経験と重ねて曲を書き緊迫感あふれる歌声を披露した。

もう一つ、プロバスケットボール選手のレブロン・ジェームズの伝記映画『モア・ザン・ア・ゲーム』(More than a Game)に提供した「ストロンガー」 (Stronger) は2009年8月にリリースされ、映画を基調にしたプロモーションビデオも制作された。同年7月には、カナダ出身のラッパー・ドレイクをフィーチャリングした先行シングル「ザ・ワン」(The One)をリリース。この楽曲のプロデューサーはこれまでも『ザ・ブレイクスルー』などでメアリーとタッグを組んだロドニー・ジャーキンスで、曲の制作に参加したエスター・ディーンは「ストロンガー」も書いている。

同年2009年12月、そうした楽曲を収録した9作目となるスタジオアルバム『ストロンガー・ウィズ・イーチ・ティア』(Stronger with Each Tear)が発売され、シングル「アイ・アム」(I Am)もリリースされた。この楽曲制作にはジョンティ・オースティンが参加しているが、元々はジョンティ・オースティンの方の名義でメアリーが客演の形であったが、メアリーのボーカルメイン曲となった。

アルバム『ストロンガー・ウィズ・イーチ・ティア』は、全米アルバムチャート2位となり、6作目の『ラヴ &ライフ』から8作目『グロウイング・ペインズ』まで続いていた1位の記録が途絶えてしまったが、R&Bアルバムチャートでは安定の1位となった(R&Bアルバムチャートは、1作目の『ホワッツ・ザ・411?』以来ずっと1位)。チャート記録は全米2位止まりとなってしまったものの、作品的には前回に続き好評の内容で、第41回NAACPイメージ・アワード(41st NAACP Image Awards)(2010年2月開催)で見事「最優秀アルバム賞」(Outstanding Album)を受賞すると同時に「最優秀女性アーティスト賞」(Outstanding Female Artist)も獲得した、2010年BETアワード(BET Awards 2010)では「最優秀女性R&Bアーティスト賞」(Best Female R&B Artist)にノミネートされた。

また2010年5月には、続編となるインターナショナル盤の『ストロンガー・ウィズ・イーチ・ティア ~続編』を発売した。この盤には、前述のサントラの「ストロンガー」などの他、フィーチャリング・コラボにトラヴィス・バーカー、ランディ・ジャクソン、スティーヴ・ヴァイ、オリアンティ・パナガリスの4人の大物ミュージシャンを迎えての、レッド・ツェッペリンの名曲カバー「天国への階段」が収録された。

そしてその話題の後は、10月から翌年2011年2月まで世界ツアー「ミュージック・サイヴド・マイ・ライフ・ツアー」(Music Saved My Life Tour)を敢行。日本にも7年ぶりに訪れ(2004年の「ラヴ&ライフ・ツアー」(Love & Life Tour)以来)、2011年1月に東京と大阪公演を行なった。

また、メアリーは「デスティニー」(Destiny)(『ノー・モア・ドラマ』収録曲)や、「アバウト・ユー」(About You)(『ザ・ブレイクスルー』収録曲)でニーナ・シモンの曲をサンプリングしていたが、そのニーナ・シモンの伝記映画『ニーナ』(Nina)が2012年頃公開予定とのニュースがこの頃伝わってきた。その映画は、ニーナの自伝本を元に製作され、ニーナとそのアシスタントだったクリフトン・ヘンダーソンとの関係を軸にしたストーリーとなり、多重人格障害や分裂症を抱えていたニーナの役をメアリーが演じ、クリフトンをデヴィッド・オイェロウォが演じるというニュースがアナウンスされていた。(その後この配役は実現しなかった。)

2011年-2013年:マイ・ライフII…ザ・ジャーニー・コンティニューズ (Act 1)

2011年から2012年にかけても、DJキャレド、レア・ガーベイなど他のアーティストの楽曲に客演参加し、映画『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』(2011年8月公開)のサントラにはアンダードッグスのプロデュースでソウル・バラード「ザ・リヴィング・プルーフ」(The Living Proof) を提供した。また、ブロードウェイ・ミュージカル『ロック・オブ・エイジズ』の映画版『ロック・オブ・エイジズ』(2012年6月公開)には女優として出演し、バーテンダーのジャスティス(シュリ―の母親役)を演じながら、「ハーデン・マイ・ハート」(Harden My Heart)や「お気に召すまま」(Any Way You Want It) などを熱唱した。

そうした精力的な活動の合間を縫い、2011年3月に先行シングル「サムワン・トゥ・ラヴ・ミー (ネイキッド)」(Someone to Love Me (Naked))をリリース。この楽曲は、2ndアルバム『マイ・ライフ』をプロデュースしたP・ディディ(ショーン・コムズ)率いるディディ-ダーティ・マネーの曲をアレンジしたメアリー・バージョンで、ジェリー・ワンダー・デュプレシスがプロデュースし、P・ディディとリル・ウェインが客演ラッパー参加した。

その他、ナズ、バスタ・ライムス、ドレイク、リック・ロス、ビヨンセなどの多彩な豪華客演アーティストを招いての次作アルバムの制作が進められ、10枚目のスタジオアルバムとなる『マイ・ライフII…ザ・ジャーニー・コンティニューズ (Act 1)』(My Life II... The Journey Continues (Act 1))が2011年11月にリリースされた。このアルバム名は、傑作として名高い2ndアルバム『マイ・ライフ』の「II」という話題性の高いものであった。メアリーはこのアルバムのコンセプトについて、鬱病とドラッグ依存症の状態が最悪だった頃について真剣に考えたもので、「助けを求めて声を上げていたようなもの」だったと後年の2018年に明かしている。

アルバムからのシングル「25/8」(25/8)は、オージェイズの1973年の曲「ナウ・ザット・ウィ・ファウンド・ラヴ」(Now That We Found Love)をサンプリングした力強いナンバーで、エリック・ハドソンがプロデュースした。ドレイクがラップ客演している次のシングル「ミスター・ロング」(Mr. Wrong)も印象的なミディアム・テンポの楽曲であった。しかしながら「ミスター・ロング」はR&Bチャートで10位で、これが収録曲の中では最大順位だった。

そして力作揃いであったアルバム『マイ・ライフII…ザ・ジャーニー・コンティニューズ (Act 1)』自体も、意外なことに全米チャートで5位止まりで総売上数が約80万枚と伸び悩んだ。また、デビューアルバム以来ずっと続いていたR&Bアルバムチャート1位の方の余裕の記録がここで途絶えてしまったことも誤算であった。そのため、続編となるはずであった「Act 2」の話が立ち消えになった。

10作目のアルバム発売後の2012年は、メアリーがデビューした1992年からちょうど20周年となる年であったがソロツアーはなく、ディアンジェロとのジョイントで8月から2013年6月まで「ザ・リベラレイション・ツアー」(The Liberation Tour (Mary J. Blige and D'Angelo Tour))を行なった。その2012年から2013年の間は、これまで精力的に行なわれていた客演参加は、ナズ、ミーク・ミル、ケンドリック・ラマー、ロッド・スチュアートなどとの数曲に留まった。

2013年-2014年:ア・メアリー・クリスマス

メアリーの次作アルバムは、メアリーが主宰するレーベルのメイトリアーク・レコード(Matriarch Records)の他、名門のヴァーヴ・レコードと組んで制作することになり、クリスマス・アルバムが企画された。メアリーはこれまで、他のアーティストのクリスマス・アルバムでの客演はあったが、自己名義のクリスマス・アルバムは初となった。

プロデューサーは、2011年にヴァーヴ・レコードのチェアマンに就任したデイヴィッド・フォスターが総指揮をとった。フォスターは数々のアーティストのクリスマス・アルバム制作を手掛け経験が豊富であり、メアリーとは第52回グラミー賞(2010年1月開催)におけるハイチ地震被災者追悼のパフォーマンス・ステージで共演し、メアリーとイタリアの歌手・アンドレア・ボチェッリがサイモン&ガーファンクルの名曲「明日に架ける橋」をコラボした縁があった。

そして11作目となるスタジオアルバム『ア・メアリー・クリスマス』(A Mary Christmas)が2013年10月にリリースされた。迎えた客演アーティストの面々は大御所のバーブラ・ストライサンド、ジャズ・トランペッターのクリス・ボッティ、クラーク・シスターズ、マーク・アンソニー、イギリスのジェシー・Jなどで、それまでのメアリーとは一味違う面が引き出されたアルバムとなった。

女優としては、2013年に映画『クリスマスの贈り物』に出演した。また、アメリカのCS局「Lifetime」で放送されたテレビ映画『ベティ&コレッタ』(Betty&Coretta)で、マルコム・Xの妻・ベティ・シャバズ役で主演を務め、女性イメージネットワーク賞(Women's Image Network Awards)の「女優賞 ミニシリーズ・テレビ映画部門」(TV Show Produced by a Woman)にノミネートされた。

全米チャート10位だったアルバム『ア・メアリー・クリスマス』の後の2014年前半の音楽活動は、ディスクロージャーの「F・フォー・ユー」(F for You)やサム・スミスの「ステイ・ウィズ・ミー」(Stay with Me)などのUKダンス・ソウル曲のリミックスに客演参加しヒットした。そして2014年6月には、コメディ映画『ベガス流 ヴァージンロードへの道』のため、全て自身の新曲で構成されたサウンドトラック・アルバム『シンク・ライク・ア・マン・トゥー』(Think Like a Man Too)をリリースし話題となった。

2014年-2016年:ザ・ロンドン・セッションズ

2014年前半におけるディスクロージャーやサム・スミスといったイギリスの新勢力とのコラボの刺激はメアリーに新たな展開をもたらし、次作アルバムはロンドンで録音されUKの新鋭音楽シーンを表現するものとなっていった。当初次作アルバムの総監修はノーティ・ボーイことシャヒード・カーン(Shahid Khan)が務めると噂されていたが、これまでもメアリーと組みヒットアルバムを生み出してきたロドニー・ジャーキンスが総プロデュースすることとなった。

ロドニーの指揮の元、集結したプロデューサー陣はディスクロージャーを始め、ノーティ・ボーイ、エッグ・ホワイトジミー・ネイプス、スティーヴ・フィッツモーリス、サム・ローマンズなどといったイギリスのダンス・ソウルを支える気鋭のクリエイターに、ソングライターにはメアリーの他、サム・スミスらが加わった。

そして待望の12作目となるスタジオアルバム『ザ・ロンドン・セッションズ』(The London Sessions)が2014年11月に発売された。この革新的なアルバムは、変化を恐れずに挑戦したメアリーの試みが感じられ、イギリスの『ガーディアン』紙の評価も高かった。しかしながら、全米チャート最高位は9位に留まり、セールス的にも初めて50万枚を下回る売上数となった。

とはいえ、商業的な伸び悩みに反して、メアリーの果敢な挑戦に対する業界の評価は非常に高く、ビルボード誌やイギリスのiTunesでは、2014年のベストR&Bアルバムに選出された。また、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベスト・アルバム賞で4位となり、『ローリング・ストーン』誌のベストR&Bアルバムでは6位となった。その他、『タイム』誌では、「2014年最も過小評価されたアルバム7選」の中に入るなど、作品の質的には良いものであった。

アルバム発表後の2015年6月から11月にかけては、北米やヨーロッパ、シンガポールなどを廻る「ザ・ロンドン・セッションズ・ツアー」(The London Sessions Tour)を敢行し、2016年10月から12月にはマックスウェルとのジョイント・ツアー「キング・アンド・クイーン・オブ・ハーツ・ワールド・ツアー」(King and Queen of Hearts World Tour)で北米やヨーロッパを廻った。

アルバム『ザ・ロンドン・セッションズ』前後の客演としては、スモーキー・ロビンソンのアルバム『スモーキー&フレンズ』(Smokey & Friends)に参加した後、2015年にリック・ロスとコラボ客演したのを始め、ドラマ『Empire 成功の代償』の主演テレンス・ハワードとデュエットしたサウンドトラック曲を発表した。ちなみにこのドラマの1stシーズン(Empire (season 1))の第10話「告白」にはメアリーもアンジー役でゲスト出演している。また、ニーナ・シモン・トリビュートアルバム『ニーナ・リヴィジテッド』(Nina Revisited: A Tribute to Nina Simone)で「悲しき願い」(Don't Let Me Be Misunderstood) をカバーした。

2016年-2018年:ストレングス・オブ・ア・ウーマン

2016年の客演としては、アルバム『ザ・ロンドン・セッションズ』の制作にも携わっていたサム・ローマンズのデビューEPに参加したり、人気トークショー『ザ・ビュー』の放送20周年を記念しダイアン・ウォーレンが作った企画シングル「ワールズ・ゴーン・クレイジー」(World's Gone Crazy)を番組テーマソングとしてリリースした。また映画『ドリーム』のサントラに「ミラージュ」(Mirage) という曲を提供した。

2016年3月には、当時アメリカ大統領候補であったヒラリー・クリントンの応援のための政治資金パーティーで、「ストレングス・オブ・ア・ウーマン」(Strength of a Woman)という曲を初披露した。この時期この楽曲と同名タイトルで次作アルバムの制作が着々と進められていた。私生活面では、2016年7月に夫でありマネージャーでもあるマーチン・ケンドゥ・アイザックス(Martin "Kendu" Isaacs)との「和解しがたい不和」を理由に離婚申請をしたことが報じられた。その後メアリーはアイザックに対して配偶者手当を支払うことを拒否し彼の要求を棄却するよう裁判所に求め、この一件でアイザックの浪費癖と、メアリーが多額の借金を負っていることが明らかとなった。

同じ7月、メアリーはオーランド銃乱射事件の犠牲者を追悼するチャリティー曲「ハンズ」(Hands)に、ブリトニー・スピアーズ、ジェニファー・ロペス、ピンク、グウェン・ステファニー、セレーナ・ゴメス、メーガン・トレイナーらと共に参加した。8月は、銃による暴力に抗議するブラック・アイド・ピーズの2003年の曲「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」(Where Is the Love?のニュー・バージョン「#WHERESTHELOVE」(Where Is the Love?)に、エイサップ・ロッキー、スヌープ・ドッグ、クインシー・ジョーンズ、ジェイミー・フォックス、DJキャレド、ウィズ・カリファらと共に参加した。

さらに9月には、Apple Music内のラジオ局「ビーツ1」(Beats 1)の番組「The 411 with Mary J. Blige」において、ヒラリー・クリントンと対談し、相次ぐ白人警官による無抵抗の黒人への暴力事件に抗議する意味を込めて、ブルース・スプリングスティーンの2001年の曲「アメリカン・スキン」(American Skin (41 Shots))をカバー歌唱した。この曲は1999年にブロンクスで起きた白人警官4人によるギニア移民男性射殺事件(Shooting of Amadou Diallo)を題材にしたものである。

様々な社会問題に関心を寄せることの多くなった年であるが、女優としてはABCの人気法廷ドラマ『殺人を無罪にする方法』のシーズン3にゲスト出演した。また、映画『マッドバウンド 哀しき友情』(2017年公開)への出演が決まり、その主題歌の制作もあった。

そうした多忙の中、2016年10月に先行シングルの「シック・オブ・イット」(Thick of It)がリリースされた。この楽曲はトラップ時代のR&Bバラードというべき斬新なサウンドで、ベイ・シティ・ローラーズの1975年の曲「恋をちょっぴり」(Give a Little Love)のイントロなどをサンプリングするという意外な選曲が取り入れられ、プロデュースは、2014年のサントラアルバム『シンク・ライク・ア・マン・トゥー』中の1曲で共作したDJキャンパー(DJ Camper)ことダリル・キャンパー・ジュニアが担当し、ジャズミン・サリヴァンなどもソングライターに参加している。

この「シック・オブ・イット」は久々のヒットとなり、「クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウル」の称号に相応しく、全米アダルトR&Bチャートの2016年11月12日から2017年2月25日まで連続16週1位を達成した。これは2010年代のメアリーのシングルでは最長のロング・ヒットとなった。先行2ndシングルの「ユー+ミー (ラヴ・レッスン)」(U + Me (Love Lesson))のプロデュースは、アッシャーの「ノー・リミット」(No Limit)などを手掛けたブランドン・B.A.M.・ホッジで、この楽曲もヒットした。

そしてそれらを収録した13作目となるスタジオアルバム『ストレングス・オブ・ア・ウーマン』(Strength of a Woman)が、デビュー25周年を記念する2017年4月にリリースされた。先行3rdシングルの「ラヴ・ユアセルフ」(Love Yourself)はカニエ・ウエストが客演参加していたが、その話題曲がオープニングとなった。ミーゴスやDJキャレド、ミッシー・エリオットが客演参加しているトラップ・ビートの「グロウ・アップ」(Glow Up)も力作となり、ジャジーなネオ・ソウル「セット・ミー・フリー」(Set Me Free)にも、新しいR&B像を模索しているメアリーの挑戦の姿勢が窺えた。

他にも、ケイトラナダとのコラボが魅力的に光るエレクトリック・ソウル「テリング・ザ・トゥルース」(Telling the Truth)や、プリンスの1979年の曲「アイ・ワナ・ビー・ユア・ラヴァー」(I Wanna Be Your Lover)のサウンドを彷彿とさせる「ファインド・ザ・ラヴ」(Find the Love)などもあり、アルバム全体が濃密な仕上がりとなっている。

アルバムを発売した4月からは北米などを廻る「ストレングス・オブ・ア・ウーマン・ツアー」(Strength of a Woman Tour)を9月まで行なった。その一環として6年ぶりに来日し、4月に東京と大阪公演の「ジャパン・ツアー 2017」も行なった。

2017年11月には主題歌「マイティー・リヴァー」(Mighty River)も提供し、自身も出演した映画『マッドバウンド 哀しき友情』が公開された。そして「マイティー・リヴァー」は、2018年ブラック・リール賞(Black Reel Awards of 2018)では「最優秀オリジナル主題歌賞」(Best Original or Adapted Song)を受賞した。女優としてのメアリーの演技も高く評価され、第90回アカデミー賞(2018年3月開催)では「アカデミー歌曲賞」と「助演女優賞」に同時ノミネートされ、第75回ゴールデングローブ賞でも「助演女優賞」にもノミネートされた。その他、メアリーの演技は名立たる賞に多数ノミネートされ高く評価された。

2018年1月11日の47歳の誕生日には、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに殿堂入りを果し、ディディなど知人らが出席した式典で感極まって泣き出す一幕もあった。メアリーは、自身がデビュー間もない駆け出しだった頃の生活について振り返りながら、2012年に死去したホイットニー・ヒューストンと同じような末路をいつ迎えてもおかしくないほどのドラッグ依存の生活だったことを告白し、ここに至るまでの歩みが楽なものではなかったと語った。

2018年-2020年

メアリーは、2004年に映画『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』のサントラにおいて、エルトン・ジョンの楽曲「悲しみのバラード」(Sorry Seems to Be the Hardest Word) をカバーしていたが、エルトン・ジョンのデビュー50周年を祝うトリビュート・アルバム『ユア・ソング〜エルトン・ジョン ベスト・ヒッツ・カヴァー』(Revamp: Reimagining the Songs of Elton John & Bernie Taupin)が2018年4月にリリースされ、メアリーのカバー「悲しみのバラード」もそのアルバムに収録された。

私生活では、2016年7月から離婚申請中であった夫のマーチン・ケンドゥ・アイザックスとの離婚が2018年6月20日に正式に裁判所から認められた。

2018年7月には、リパブリック・レコードからデジタル配信で「オンリー・ラヴ」(Only Love)をリリースした。このシングルにはファースト・チョイス の1977年の曲「ドクター・ラヴ」(Doctor Love)がサンプリングされている。「オンリー・ラヴ」が全米アダルトR&Bチャートで10位となった時点で、1994年のシングル「ビー・ハッピー」(Be Happy)以来、シングル23曲がアダルトR&Bチャートでトップ10入りを果たしたこととなり、この記録はメアリーが最多となった。

2019年の5月は、ナズを客演コラボに迎えた「スライヴィング」(Thriving)がデジタル配信された。6月23日に開催された2019年BETアワード(BET Awards 2019)において、特別賞の「生涯功労賞」(Lifetime Achievement Award)を受賞し、会場となったロサンゼルスのマイクロソフト・シアターでパフォーマンスを披露しプレゼンターも務めた。

そして7月からナズとのジョイント・ツアー「ザ・ロイヤルティー・ツアー」(The Royalty Tour)で北米やカナダを廻っている。8月8日に新曲「ノウ」(Know)がリリースされ、2020年10月には映画『BELLY OF THE BEAST』(Belly of the Beast)の主題歌「See What You've Done (From The Film Belly Of The Beast)」がリリースされた。

2022年-

2017年の『ストレングス・オブ・ア・ウーマン』(Strength of a Woman)以来、5年ぶりとなる14作目のスタジオアルバム『グッド・モーニング・ゴージャス』(Good Morning Gorgeous)が2022年2月にリリースされた。

ディスコグラフィ

アルバム

スタジオ・アルバム

企画アルバム

  • ホワッツ・ザ・411? リミックス (What's the 411? Remix)(1993年12月) - 『ホワッツ・ザ・411?』のリミックス版。
  • ザ・ツアー (The Tour)(1998年7月) - ライブ・アルバム。1997年の全米ツアーのロサンゼルス、ユニヴァーサル・アンフィシアターでのライブを収録。
  • バラッズ (Ballads)(2000年12月) - 日本のみ発売のバラード・コレクション。スティーヴィー・ワンダーの「オーヴァージョイド」のカバーも収録。
  • ダンス・フォー・ミー (Dance for Me)(2002年8月) - リミックス・コレクション。
  • マイ・コレクション・オブ・ラヴ・ソングス (My Collection of Love Songs (Live))(2006年1月) - ライブ・アルバム。
  • メアリー・J. ブライジ&フレンズ (Mary J. Blige & Friends)(2006年10月) - スティング、ロビン・シック、パティ・ラベル、ジェイミー・フォックス、LL・クール・J、ナズ、カルロス・サンタナ、エルトン・ジョンとの共演曲を収録。
  • リフレクションズ~ア・レトロスペクティブ (Reflections (A Retrospective))(2006年12月) - ベスト・アルバム。新曲も4曲収録。
  • シンク・ライク・ア・マン・トゥー (Think Like a Man Too)(2014年6月) - 映画『ベガス流 ヴァージンロードへの道』(Think Like a Man Too)のサウンドトラック。
  • ハー・ストーリー Vol.1 (HERstory Vol.1)(2019年12月) - 90年代のヒット曲を集めたベストアルバム。ジェイ・Zと共演した「キャント・ノック・ザ・ハッスル」(Can't Knock the Hustle)を初収録。

映画・テレビ出演

主役は▲印

テレビ

  • ニューヨーク・アンダーカヴァー (New York Undercover) - 1995年。メアリー自身(音楽パフォーマー)
    • シーズン1の第14話「Private Enemy No. 1」(Season 1 (1994–95))の回
      シーズン2の第2話「Tag You're Dead」(Season 2 (1995–96))の回
  • ザ・ジミー・フォックス・ショウ (The Jamie Foxx Show) - 1998年。オラ・モエ(Ola Mae)役
    • シーズン2の第14話「Papa Don't Preach」(Season 2 (1997–1998))の回
  • モエシャ (Moesha) - 1999年。メアリー自身(音楽ゲスト)
    • シーズン5の第1話「Good Vibrations?」(Season 5 (1999–2000))の回
  • ストロング・メディスン (Strong Medicine) - 2001年。シモン・フェローズ(Simone Fellows)役
    • シーズン2の第4話「History」(Season 2 (2001–02))の回
  • ワン・ライフ・トゥ・リヴ (One Life to Live) - 2006年、2008年。メアリー自身の役
  • ゴースト 〜天国からのささやき (Ghost Whisperer) - 2007年。ジャッキー・ボイド(Jackie Boyd)役
    • シーズン2の第15話「Mean Ghost」(season 2)の回
  • アントラージュ★オレたちのハリウッド (Entourage) - 2007年。メアリー自身(R&Bディーヴァ)
    • シーズン4の第8話「Gary's Desk」(Season 4 (2007))の回
  • 30 ROCK/サーティー・ロック (30 Rock) - 2009年。メアリー自身(ゲスト・スター)
    • シーズン3の第22話「Kidney Now!」(season 3)の回
  • アメリカン・アイドル (American Idol) - 2010年と2012年。ゲスト審査員/指導パフォーマー
    • シーズン9(season 9)とシーズン11(season 11)の回
  • ザ・ヴォイス (The Voice) - 2012年。指導チーム(アダム・レヴィーンのチーム)の一員
    • シーズン3(American season 3)の回
  • ベティ&コレッタ (Betty&Coretta) - 2013年、テレビ映画。ベティ・シャバズ役▲
  • Xファクター (The X Factor) - 2013年。ゲスト審査員
    • シリーズ10(Judges' houses)の回
  • Empire 成功の代償 (Empire) - 2015年。アンジー(Angie)役
    • シリーズ1の第10話「Sins of the Father」(season 1)の回
  • ザ・ウィズ・ライヴ! (The Wiz Live!) - 2015年。エヴィレンス(Evillene)、西の悪い魔女(The Wicked Witch of the West)役
  • ブラッキッシュ (Black-ish) - 2015年。ミラベル・チャレット(Mirabelle Chalet)役
    • シーズン1の第24話「Pops' Pops' Pops」(season 1)の回
  • 殺人を無罪にする方法 (How To Get Away With Murder) - 2016年。ロー(Ro)役
    • シーズン3(season 3) の回
  • アンブレラ・アカデミー (The Umbrella Academy) - 2019年。チャチャ(Cha-Cha)役
  • スクリーム (Scream) - 2019年。シェリー・エリオット(Sherry Elliot)役
  • ピース・オブ・マインド・ウィズ・タラジ (Peace of Mind with Taraji) - 2020年。メアリー自身
    • エピソード3・パート1の回
  • POWER/パワー ブックII:ゴースト (Power Book II: Ghost) – 2020年 - 。Monet Stewart Tejada役
  • ザ・バッドネス・クエッショネア (The Badass Questionnaire) – 2021年。メアリー自身
    • エピソード「メアリー・J. ブライジ」の回
  • セレブリティ IOU (en:Property Brothers (franchise)#Celebrity IOU) – 2021年。メアリー自身
    • エピソード「Don't Go Ham」の回
  • Earnin' It (Earnin' It) - 2022年。メアリー自身(メインゲスト)
  • オリー (Lost Ollie) – 2022年。Rosy役(声優)
  • ザ・ワイン・ダウン・ウィズ・メアリー・J. ブライジ (The Wine Down with Mary J. Blige) – 2023年。メアリー自身(トークショー司会者)

映画

  • プリズン・ソング (Prison Song) - 2001年。ミセス・バトラー(Mrs. Butler)役▲
  • ジェイ・Z フェイド・トゥ・ブラック (Fade to Black) - 2014年のドキュメンタリー映画。メアリー自身で出演
  • アイ・キャン・ドゥ・バッド・オール・バイ・マイセルフ (I Can Do Bad All By Myself) - 2009年。タニヤ(Tanya)役
  • ロック・オブ・エイジズ (Rock of Ages) - 2012年。ジャスティス・チャリアー(Justice Charlier)役
  • クリスマスの贈り物 (Black Nativity) - 2013年。エンジェル(Angel)役
  • マッドバウンド 哀しき友情 (Mudbound) - 2017年のNetflixオリジナル映画 。フローレンス・ジャクソン(Florence Jackson)役
    • 主題歌「マイティー・リヴァー」(Mighty River)も担当。
  • クインシーのすべて (Quincy) - 2018年のNetflixドキュメンタリー映画。メアリー自身で出演
  • 名探偵シャーロック・ノームズ (Sherlock Gnomes) - 2018年。アイリーン・アドラー(Irene)役(声優)
  • トロールズ・ワールド・ツアー (Trolls World Tour) - 2020年。クイーン・エッセンス(Queen Essence)役(声優)
  • ボディカメラ (Body Cam) - 2020年。レネ・ロミート=スミス(Renee Lomito-Smith)役▲
  • ザ・ヴァイオレント・ハート (The Violent Heart) - 2019年撮影。ニーナ(Nina)役
  • ピンク・スカイズ・アヘッド (Pink Skies Ahead) – 2020年
  • リスペクト (Respect) – 2021年。ダイナ・ワシントン役
  • メアリー・J. ブライジのマイ・ライフ (Mary J. Blige's My Life) – 2021年。ドキュメンタリー映画。メアリー自身▲
  • スリラー40 (Thriller 40) – 2023年。ドキュメンタリー映画。メアリー自身で出演
  • ロブ・ピース (Rob Peace) - 2024年予定。Jackie Pearce役

受賞とノミネート

女優として

  • テレビ映画「ベティ&コレッタ」(Betty&Coretta) - 2013年
    • 第15回女性イメージネットワーク賞 (The Women's Image Awards 15)‐「女優賞/ミニシリーズ・テレビ映画部門」ノミネート
  • 映画「クリスマスの贈り物」(Black Nativity) - 2013年
    • アメリカン・ブラック映画祭 (American Black Film Festival) - 「アンサンブル・キャスト賞」ノミネート
  • テレビ特番「ザ・ウィズ・ライヴ!」(The Wiz Live!) - 2015年
    • 第6回批評家選考テレビ・アワード (6th Critics' Choice Television Awards) - 「助演女優賞」ノミネート(次点)
    • 第16回ブラック・リール・アワード (Black Reel Awards of 2016) - 「助演女優賞/ミニシリーズ・テレビ映画部門」ノミネート
  • 映画「マッドバウンド 哀しき友情」(Mudbound) - 2017年
    • 第17回ニューヨーク映画批評家オンライン賞 - 「アンサンブル演技賞」受賞
    • インディワイアー賞 (IndieWire Critics Poll)‐「ブレイクスルー演技賞」受賞
    • 第21回ハリウッド映画賞 - 「ブレイクアウト女優賞」並びに「ブレイクアウトアンサンブル賞」の同時受賞
    • 第27回ゴッサム・インディペンデント映画賞 - 「審査員特別賞(アンサンブル演技賞)」受賞 /「ブレイクスルー演技賞」ノミネート
    • サンタバーバラ国際映画祭 (Santa Barbara International Film Festival) - 「演技賞」受賞
    • 第18回ブラック・リール・アワード (Black Reel Awards of 2018) - 「アンサンブル演技賞」並びに「主題歌賞」の同時受賞 / 「助演女優賞」並びに「ブレイクスルー女優賞」の同時ノミネート
    • 第8回ブラック映画批評家協会賞 (Black Film Critics Circle)‐「助演女優賞」並びに「アンサンブル演技賞」の同時受賞
    • 第22回サテライト賞 (22nd Satellite Awards)‐「アンサンブル演技賞」受賞 / 「助演女優賞」ノミネート
    • 第22回サンディエゴ映画批評家協会賞 (San Diego Film Critics Society Awards 2017) - 「アンサンブル演技賞」受賞
    • 第33回インディペンデント・スピリット賞 - 「ロバート・アルトマン賞」(アンサンブル・キャスト及びキャスティングディレクターに対して)受賞
    • 第43回ロサンゼルス映画批評家協会賞 - 「助演女優賞」ノミネート(次点)
    • 第90回アカデミー賞‐「助演女優賞」並びに「歌曲賞」の同時ノミネート
    • 第24回第24回全米映画俳優組合賞(SAG)‐「助演女優賞」並びに「アンサンブル演技(キャスト)賞」の同時ノミネート
    • 第23回クリティクス・チョイス・アワード‐「助演女優賞」並びに「アンサンブル演技賞」の同時ノミネート
    • 第75回ゴールデングローブ賞 - 「助演女優賞」並びに「主題歌賞」の同時ノミネート
    • 第16回ワシントンD.C.映画批評家協会 (Washington D.C. Area Film Critics Association Awards 2017) - 「助演女優賞」並びに「アンサンブル演技賞」の同時ノミネート
    • 第7回オーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞 (7th AACTA International Awards) - 「助演女優賞」ノミネート
    • 女性映画連盟ジャーナリスト (Alliance of Women Film Journalists) - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第13回オースティン映画批評家協会 (Austin Film Critics Association Awards 2017) - 「助演女優賞」並びに「ブレイクスルー・アーティスト賞」の同時ノミネート
    • 第30回シカゴ映画批評家協会 (Chicago Film Critics Association Awards 2017) - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第23回ダラス・フォートワース映画批評家協会#ダラス・フォートワース映画批評家協会賞 (Dallas–Fort Worth Film Critics Association Awards 2017) - 「助演女優賞」ノミネート(次々点3位)
    • ドリアン・アワード (Dorian Awards) - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第22回フロリダ映画批評家協会賞 (Florida Film Critics Circle Awards 2017) - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第7回ジョージア映画批評家協会賞 (Georgia Film Critics Association) - 「アンサンブル演技賞」並びに「オリジナル歌曲賞」の同時ノミネート
    • ガイド・オブ・ミュージック・スーパーヴァイザーズ・アワード (Guild of Music Supervisors Awards) - 「主題歌賞」ノミネート
    • ハリウッド・ミュージック・イン・メディア・アワード (Hollywood Music in Media Awards) - 「主題歌賞」ノミネート
    • 第21回オンライン映画批評家協会賞 (Online Film Critics Society Awards 2017) - 「助演女優賞」並びに「アンサンブル演技賞」の同時ノミネート(後者は次点)
    • 第38回オンライン映画&テレビジョン協会賞‐「ブレイクスルー演技女優賞」並びに「アンサンブル演技賞」の同時ノミネート
    • 第15回アイオワ映画批評家協会賞 - 「助演女優賞」ノミネート(次点)
    • 第18回フェニックス映画批評家協会賞 - 「アンサンブル演技賞」並びに「主題歌賞」の同時ノミネート
    • 第4回フェニックス・オンライン映画批評家協会賞 - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第13回ノーステキサス映画批評家協会賞 - 「助演女優賞」ノミネート
    • 第6回ノース・カロライナ映画批評家協会賞‐「助演女優賞」ノミネート
    • 第10回デンバー映画批評家協会賞‐「助演女優賞」ノミネート
    • コロンバス映画批評家協会賞2018 - 「アンサンブル演技賞」ノミネート(次点)
    • 第11回デトロイト映画批評家協会賞 - 「アンサンブル演技賞」ノミネート
Collection James Bond 007

慈善事業

  • 子供の頃に住んでいたニューヨーク州ヨンカーズ市に、女性へのサポートのためのコミュニティー・センター「The Mary J. Blige Center For Women」をスティーブ・スタウトと共に2009年に設立した。

脚注

注釈

出典

参考資料

  • ホワッツ・ザ・411? (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. MCAビクター株式会社. 1992. UPTD-10681。 - 輸入盤
  • マイ・ライフ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. MCAビクター株式会社. 1994. MVCM-496。
  • シェア・マイ・ワールド (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2015. UICY-77599。 - 限定盤
  • ザ・ツアー (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. MCAビクター株式会社. 1998. MCAD-11848。 - 輸入盤
  • メアリー (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 1999. MVCA-24168。
  • バラッズ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2000. UICC-1009。
  • ノー・モア・ドラマ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2001. UICC-1020。
  • ラヴ&ライフ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2003. UICC-1090。
  • ザ・ブレイクスルー (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2005. UICF-1064。
  • リフレクションズ~ア・レトロスペクティブ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2006. UICF-1083。
  • グロウイング・ペインズ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2007. UICF-1093。
  • ストロンガー・ウィズ・イーチ・ティア (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2009. UICF-9065。
  • マイ・ライフII…ザ・ジャーニー・コンティニューズ (Act 1) (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2011. UICF-1131。
  • ア・メアリー・クリスマス (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2013. UCCV-1140。
  • ザ・ロンドン・セッションズ (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2014. UICC-10011。
  • ストレングス・オブ・ア・ウーマン (ライナーノーツ). メアリー・J. ブライジ. ユニバーサル・ミュージック株式会社. 2017. UICC-10029。

外部リンク

  • MJB / MARY J BLIGE(UNIVERSAL INTERNATIONAL) - 日本公式サイト
  • Mary J Blige | Official Site - アメリカ合衆国公式サイト(英語)
  • Mary J. Blige - IMDb(英語)
  • Mary J. Blige - Myspace(英語)

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メアリー・テューダー (フランス王妃)


メアリー・テューダー (フランス王妃)


メアリー・テューダーMary Tudor, 1496年3月18日 - 1533年6月25日)は、テューダー朝のイングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベスの次女で、フランス国王ルイ12世の王妃。フランスではマリー・ダングルテール(Marie d'Angleterre)と呼ばれる。ルイ12世の死後はイングランド貴族の初代サフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚した。孫にジェーン・グレイがいる。

概要

フランス王妃だったのは3ヵ月だが、公爵夫人となった後も「元フランス王妃」と呼ばれた。そのためメアリーは英語では「クイーン・メアリー」(Queen Mary)と呼ばれる。スコットランド女王メアリー・ステュアート(姉マーガレットの孫、フランス王フランソワ2世の王妃でもあった)やイングランド女王メアリー1世(兄ヘンリー8世の娘、同じくメアリー・テューダー)と時に混同されるので注意を要する。

当時のイングランド国王ヘンリー8世の妹であることから、様々な結婚話があったが、1515年フランス国王ルイ12世と結婚した。このときすでにチャールズ・ブランドンと恋愛中だったメアリーはヘンリー8世に、一度は政略結婚を引き受けるが、夫の死後は好きな人と結婚させてくれるよう約束させる。

当時すでにメアリの祖父ほどの年齢だったルイ12世は、3ヵ月後に死去した。しかし、ヘンリー8世は最初から約束を守る気などなく、次の結婚を考えていたが、ルイ12世の次のフランス国王フランソワ1世がヘンリー8世とほぼ同年齢でもありライバル心を持っていたため、フランスでメアリーとチャールズ・ブランドンを結婚させてしまう。フランスにチャールズを遣わせた際、妹に求婚しないように誓いを立てさせていたヘンリー8世は怒り狂い、2人がイングランドに帰ることを禁ずるが、後に莫大な金(24000ポンド)を支払って帰国がかなう。

ルイ12世が結婚後わずか3ヵ月で死去したことに関しては、「早く死んでほしいと願っていたメアリーが狩猟や宴を連日催して、年相応のおとなしい生活をしていた夫から体力を奪ったため」という説もある。

メアリー自身は歴史上あまり重要な役割を果たさなかったが、その孫のジェーン・グレイはメアリーの甥であるエドワード6世の遺言により即位し、王位簒奪者として処刑されることとなる。また、ジェーンの妹たちも後にエリザベス1世の次の王位継承候補者となる。

幼き日のアン・ブーリン(ヘンリー8世の王妃)がフランスに渡ったのは、メアリーの侍女としてであったという説がある。

義姉に当たるヘンリー8世妃キャサリ・オブ・アラゴンとは懇意であり、1520年代後半頃、兄がキャサリンと離婚し、アン・ブーリンと再婚し王妃に立てようと画策した際には、ヘンリー8世及びアンと対立し、裁判でもキャサリンを懸命に擁護した。

そのため、ヘンリー8世を支持する夫チャールズとも対立するようになったとされる。結局、キャサリンとヘンリー8世の婚姻の無効が認められ、アン・ブーリンとの再婚が決まり、チャールズ・ブランドンがアンの戴冠式の責任者として多忙を極める最中で死去した。

系図


参考文献

  • 渡辺みどり 『英国王室物語―ヘンリー八世と六人の妃』 講談社、1994年

小説

  • Jean Plaidy Mary, Queen of France. Robert Hale Ltd, 1964.
  • Jean Plaidy The lady in the tower. Broadway Books (Reprint), 2003.

Collection James Bond 007


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