![クラウディオ・モンテヴェルディ クラウディオ・モンテヴェルディ](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Claudio_Monteverdi%2C_engraved_portrait_from_%27Fiori_poetici%27_1644_-_Beinecke_Rare_Book_Library_%28adjusted%29.jpg/400px-Claudio_Monteverdi%2C_engraved_portrait_from_%27Fiori_poetici%27_1644_-_Beinecke_Rare_Book_Library_%28adjusted%29.jpg)
クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567年5月15日洗礼 - 1643年11月29日)は、16世紀から17世紀にかけてのイタリアの作曲家、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、歌手。
マントヴァ公国の宮廷楽長、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任し、ヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げた。モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられており、長命もあいまって、その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類される。生前より高い人気を誇り、後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされている。オペラの最初期の作品の一つである『オルフェオ』を作曲したが、この作品は20・21世紀にも頻繁に演奏される最初期のオペラ作品となっている。
モンテヴェルディは1567年に北イタリアのクレモナに生まれた。幼少期にはクレモナ大聖堂の楽長であったマルカントニオ・インジェニェーリの下で学ぶ。1582年と83年に最初の出版譜としてモテットと宗教マドリガーレを何曲か出している。1587年には世俗マドリガーレの最初の曲集を出版し、その直後からクレモナの外での職を探し始めた。
1590年に、マントヴァのヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷にて歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として仕えはじめ、1602年には宮廷楽長となった。
その後40歳まで主にマドリガーレの作曲に従事し、9巻の曲集を出した。それまでのルネサンス音楽対位法の伝統的なポリフォニーの優れた作曲家として出発したが、より大きな感情の起伏を表現しようということから、新しい対位法の可能性を広げることになる。1605年に出版された第5巻(Quinto Libro)はモンテヴェルディとジョヴァンニ・マリア・アルトゥージとの論争の場となったことで知られる。アルトゥージは最近の作曲様式の「粗っぽさ」や「破格」を攻撃し、特に第4巻のマドリガーレを標的とした(第5巻の「クルーダ・アマリッリ」も含まれる)。これに対しモンテヴェルディは第5巻の序で、音楽演奏を「第一作法」(prima pratica、第一様式、第一技法などの訳もある)、「第二作法」(seconda pratica)の2つの潮流に分けることを提案した。「第一作法」は従来の16世紀的なポリフォニーの理想、すなわち厳格対位法に従い、不協和音への予備を必須とし、各声部が対等であるものを指す。「第二作法」はより自由な対位法を用い、声部の中でソプラノとバスに重点がおかれる。これは中部イタリア生まれのモノディという新しい様式への動きでもあった。第5巻のマドリガーレの多くに器楽による通奏低音が付されていることも、モンテヴェルディが自覚的に導入した新しい流行であった。また第5巻は自覚的な機能的調性の使用の始まりとも見なされている。全体として第8巻までの8巻のマドリガーレ曲集は、ルネサンスのポリフォニー音楽からバロック音楽のモノディ様式への劇的な変遷を写し取るものとなっている。作曲家の死後、1651年に出版されたマドリガーレ曲集第9巻は、恐らく生涯のさまざまな時点で作曲された曲を収録したもので、カンツォネッタなどのより軽いものも含んでいる。
明確な旋律線をもち、聞き取りやすい歌詞、そしてしっかりとした器楽の伴奏を伴うモノディ様式から、オペラへの道はある意味当然の歩みであった。1607年にモンテヴェルディは最初のオペラ作品『オルフェオ』(L'Orfeo)をマントヴァにて初演する。謝肉祭の祝祭としてマントヴァ公の命を受けての作曲であった。
『オルフェオ』の画期的な点はその劇的な力とオーケストレーションであった。オルフェオはおそらく作曲家が各声部への楽器指定をした最初の作品であると考えられており、また初演時の楽器指定が今日にまで伝わっている最初期の大規模作品の一つとなっている。あらすじは真に迫った音楽的表現によって描かれ、旋律は線的で明瞭である。このオペラによりモンテヴェルディは「音楽による劇」(dramma per musica)というまったく新しい音楽の様式を作り上げたと言われる。モンテヴェルディのオペラ作品は、通常「バロック以前」(プレ・バロック)もしくは「初期バロック」と位置づけられているが、サンダーシートなどの効果音が世界で初めて作曲家によって使われたという説もあり、近代オペラの出発点とみなされている。
モンテヴェルディの次の大きな作品は1610年の『聖母マリアの夕べの祈り』(Vespro della Beata Vergine、『聖母マリアの晩課』とも)であった。出版譜に書かれた音楽の規模が非常に大きいために、一回の礼拝ですべて演奏することを目的としていたかどうかについては意見が分かれている。ただし、音楽的には全体の統一性が方々に見られる。
1612年にヴィンチェンツォ公爵が没し、マントヴァ公爵の位をついだフランチェスコは経済難からモンテヴェルディを解雇した。モンテヴェルディは約1年間にわたり、定職を持たずにクレモナで過ごした。
1613年、モンテヴェルディはヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長に任命され、すぐに前任者ジュリオ・チェザーレ・マルティネンゴの財政的失策によって衰微していた合唱隊および器楽隊を建て直した。聖堂側は1609年のジョヴァンニ・クローチェの死後衰退の一途をたどっていた聖堂の音楽が建て直されたことに安堵したという。
ヴェネツィアにいる間には、マドリガーレ集の第6、7、8巻が出版された。1638年の第8巻(Ottavo Libro)は最大の規模をもち30年間以上に渡って書きためられた曲が収められている。マドリガーレ様式の傑作と広く見なされているいわゆる「戦いと愛のマドリガーレ」(Madrigali dei guerrieri ed amorosi)が含まれ、解放されたエルサレムに材を得た、オーケストラと複合唱による劇的な『タンクレディとクロリンダの闘い』(1624年)も収められている。このような複合唱は、先任者のジョヴァンニ・ガブリエーリなどと同様、サン・マルコ寺院の対面する2つのバルコニーに着想を得て行われたのではないかと推測されている。またこの作品は擦弦楽器のトレモロ(同音の素早い繰り返し)やピッチカート(指による撥弦)を劇的な場面の効果として用いた初期の例としても注目される。またヴェネツィアにできた入場券によって興行する最初のオペラハウスのために多くのオペラ作品を書いた。
晩年のモンテヴェルディは病に伏すことが多かったが、2曲の傑作とされるオペラ、『ウリッセの帰還』(1641年)と『ポッペーアの戴冠』(1642年)を作曲している。後者はローマ皇帝ネロに題材を得た史劇であり、悲劇的な場面や抒情的な場面のみならず、コミカルな場面も含まれ、登場人物の写実的な描写や、従来にくらべ暖かい旋律などにより、モンテヴェルディの最高傑作とも言われる。合唱の役割は縮小し、器楽編成も先の作品より小さい。
晩年までヴェネツィアで非常に大きな音楽的影響力を保ち、その門下からはベネデット・フェラーリ、ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリをはじめ多くのオペラ作曲家が輩出している。またハインリヒ・シュッツは1628年の二度目のヴェネツィア訪問の後、モンテヴェルディから学んだ新しい様式をドイツへ持ち帰り、ドイツ語の音楽へ応用した。
1632年、モンテヴェルディはカトリック教会の司祭に任命された。ヴェネツィアにて没し、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬されている。
モンテヴェルディは少なくとも18曲のオペラを作曲した。そのうち、『オルフェオ』、『ウリッセの帰還』『ポッペーアの戴冠』そして2作目の『アリアンナ』の中のアリア「アリアンナの嘆き」が現存している。
他の現存する大規模作品
マドリガーレ集
『ポッペーアの戴冠』(ポッペーアのたいかん、L'Incoronazione di Poppea)は、モンテヴェルディが作曲したオペラ・セリア。『ポッペアの戴冠』とも言う。
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ブセネッロの台本による。古代ローマ帝国の皇帝ネローネ(ネロ)が、周囲の反対者を排除して、寵愛するポッペーア(ポッパエア・サビナ)を皇后とする物語。1642年にヴェネツィアで初演された。
現存する筆写者不明のナポリ稿、ヴェネツィア稿の2種類の手稿本には、歌と低音部しか書かれていない。そのためこの作品は、演奏者によって楽器・演奏が様々に異なっている。
幸運、美徳のどちらが偉大か争っているところに愛の神が割って入り、自分より偉大な神はいない、私が少し動くと世の中が変わるのだという。
オットーネが戦地から家に帰ってくると、皇帝ネローネの兵がいる。そこで妻の浮気に気付く。
一方、オッターヴィアも夫の浮気に悩まされている。セネカは彼女を慰め、皇帝には浮気をやめるようにと忠告する。
ネローネは離婚して、ポッペーアを皇后にするとポッペーアに告げる。ポッペーアは喜んで邪魔なセネカを消すためにある事ない事をネローネに言う。
兵が自害の命令をセネカに伝える。セネカは家族や友人に引き止められるが、命令に従って風呂桶の中で手首を切って静かに死ぬ。
オッターヴィアはオットーネを脅してポッペーア殺害を命じる。オットーネはドルジッラから服を借りて女装し、昼寝中のポッペアを殺そうとする。しかし、愛の神がポッペーアを目覚めさせて事無きを得る。気付かれたオットーネは逃げ去る。アルナルタはオットーネをドルジッラと間違え、ドルジッラが殺そうとしたと告発する。
ポッペーア殺害未遂の罪で皇帝の前に引かれたドルジッラは、愛するオットーネのために自分がやったと言う。そこにオットーネがかけ付け、自分が真犯人であること、オッターヴィアに命じられたことを皇帝に言う。ネローネは離縁の口実を得て喜び、死一等減じてオットーネを国外追放に処する。ドルジッラは同行を願い出、ネローネはこれを許し、彼女を徳婦と讃える。オッターヴィアは離縁され、小舟で流されて追放される。
めでたくポッペアは新皇后となり、臣下たちや神々の祝福を受ける。
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(Hans Werner Henze, 1926年7月1日 - 2012年10月27日)は、ドイツの作曲家。
1926年、現在のノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースローで生まれた。12歳から作曲を始めた。
ハイデルベルクの音楽大学で教会音楽を勉強する前からオペラ劇場で伴奏ピアニストを勤める。交響曲第1番で頭角を現し、シュトックハウゼンと並んでドイツでもっとも才能のある若手に列される。以後、多数の芸術賞や音楽賞・名誉博士号などを取得してきた。
一時はケルン音楽大学で客員教授として現代音楽劇なども教えていた。ヘンツェは同性愛者であり、また、ノーノと同じく左翼思想の影響を強く受けている。新左翼の活動に接近した時期もあるため、政治的な音楽も作品リストにある。1953年に同性愛に対して不寛容であったドイツから中央イタリアのモンテプルチャーノへ移住している。
初期には十二音技法などを使った作品があるが、後に伝統的な様式と革新的な様式を折衷し、作品は無調であるが古典的なメロディー、リズム・オスティナートなどが常に見られる。10曲の交響曲の他、「イギリスの猫」や「若い恋人たちへのエレジー」、「バッカスの巫女」など数多くのオペラ作品を作曲している。作品はその他協奏曲や合唱曲・吹奏楽など規模の大きい編成のものが多く小編成の室内楽は少ない。
高齢のためオペラの創作は引退する予定だったが、その後もオペラの委嘱は絶えなかった。長年、全作品はショット社から出版されていたが、著作権の関係でトラブルが生じた後はチェスター社から新作が出版された。
2011年にドイツ音楽作家賞生涯功労賞を受賞した。
2012年10月27日、ザクセン州ドレスデンの病院で死去。86歳没。
ルカ・フランチェスコーニ(Luca Francesconi、 1956年 - )は、イタリアの現代音楽の作曲家。現在はスウェーデンで教鞭を取る。
1996年に山口県に来日した時の自叙では「電子オルガンの伴奏屋からプロのジャズピアニストに転向し、ジャズのフュージョン化に疑問を感じてクラシックの音楽の勉強を一からやり直した」あとで、前衛音楽への道に入った。後にルチアーノ・ベリオの有力アシスタントとして勤務し、アツィオ・コルギ、カールハインツ・シュトックハウゼン他に師事。アゴン・アクスティカ・インフォマティカ・ムジカを創設し、テクノロジーと音楽との関係を探索。その努力は声楽とエレクトロニクスを使った作品「エティモ」に顕著である。
ドイツのダルムシュタットでクラーニヒシュタイン音楽賞を作曲部門で受賞し、1994年にジーメンス音楽賞若手対象奨励賞とイタリア賞を受賞して評価が確定する。早期に国外で仕事をした結果、当然母国よりも海外の支持が上回り、現在も多くの委嘱に答えている。2002年度には、2度目のイタリア賞を受賞する。
セリエルという楽語で表現するのを避けているが、彼の音楽も全ての素材がさまざまな比率の中で蠢く正嫡の現代音楽である。ヴァイオリンソロのための「デュオロン」では、冒頭に提示した音数と休符数の比率が徐々に楽曲を侵食する。しかし、クラシック音楽以外の音楽に詳しかったためか、彼の音楽は時として現代音楽のおとなしさを打破するほどの苛烈なパワーとスピードに満ちており、これは現在の作風にもいえることである。近年は視覚的要素を伴う大作の発表が多い。
ルネサンス音楽の作曲家一覧(ルネサンスおんがくのさっきょくかいちらん)は、生誕1400年~1600年頃であるクラシック音楽の作曲家の一覧で、国別、生年の順、生年が同じなら没年の順である。
他の時期のクラシック音楽の作曲家については、クラシック音楽の作曲家一覧から参照されたい。
エンニオ・ジェレッリ(Ennio Gerelli, 1907年2月12日 - 1970年10月5日)は、イタリアの指揮者、作曲家。エンリコ・ジェレッリ(Enrico Gerelli)とも表記される。
クレモナの生まれ。
ジュリア・サヤーニに音楽の手ほどきを受け、ボローニャのマルティーニ音楽院でヴァイオリンを学んだ後、ミラノのヴェルディ音楽院で作曲を学んだ。 1935年からスカラ座のコレペティトゥーアとなり、1940年まで務めた。1937年から1946年までスカラ座附属の舞踊学校のために作曲を行った。 1941年にミラノ・アンジェリクム協会を創設して1953年まで指揮者を務めた。
ルネサンス音楽からバロック音楽の復興に熱心に取り組み、1951年にジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの《兄に恋した妹》をアンジェリクム協会で上演したり、1959年にボローニャ市立劇場でヘンリー・パーセルの《ディドーとエネアス》を紹介したり、1969年にアレッサンドロ・ストラデッラの《恋愛学校》をナポリのサン・カルロ劇場で上演したりした。亡くなる年にはエクサンプロヴァンスでクラウディオ・モンテヴェルディの《タンクレディとクロリンダの戦い》を指揮している。 録音活動も行い、モンテヴェルディの《情け知らずの女たちのバッロ》やジョアキーノ・ロッシーニの《ブルスキーノ氏》などの録音がある。 一方で、1958年にロレンツォ・ペロージのオラトリオ《キリストの復活》をボローニャのサン・ペトロニオ教会で初演するなど、20世紀に作曲された作品にも目を向けていた。
クレモナにて死去。
クヌート・イェッペセン (Knut Jeppesen、1892年8月15日 - 1974年6月14日)は、デンマーク出身のオルガニスト・作曲家・音楽理論家・音楽学者。コペンハーゲンで生まれ、リスコヴに没した。
ハーコン・アンデルセンとパウル・ヘッルムートに師事。のちにコペンハーゲンでカール・ニールセンに師事した。その後ウィーンに留学し、グイド・アトラーに師事して博士号を授与された。帰国してからは各地の教会でオルガニストを務め、ヴァン・ホルンボーとベント・ロレンツェンがイェッペセンに師事したことで、デンマーク現代音楽の開祖的な存在となった。
彼の名を決定づけたのは「不協和音程に細心の注意を払ったパレストリーナ様式 Palestrinastil med saerligt henblik paa dissonansbehandlingen」と「対位法 (声楽ポリフォニー) Kontrapunkt (vokalpolyfoni)」であり、後者は即座にドイツ語版、英語版、日本語版が翻訳出版されるなど学習者の標準として長らく使用された。英訳版は本人による英語版がイギリスで出版されたのち、デンマーク語オリジナル版からのグレン・ヘイドン訳もアメリカ合衆国で出版された。日本語版は柴田南雄と皆川達夫による共訳に小澤征爾がすべての譜例を書き直したものが東京創元社から出版され、その後音楽之友社からも再版された。現在の研究からは幾分それた事実誤認も見られるが、まず対位法を何から始めるのかといった説明を一通り行った後に、教会旋法を用いてフックスに倣った類的対位法に入り、カノン、モテット、ミサの実習へ誘う構成を確立した点において不朽である。
作曲活動も行っているが、音盤化が少ない。
メレディス・ジェーン・モンク( Meredith Jane Monk 、1942年11月20日 - 、ニューヨーク市)は、アメリカ合衆国の作曲家、パフォーマー、演出家、ヴォーカリスト、映画製作者、振付家。1960年代からモンクは音楽、演劇、舞踏にわたる総合的な作品を送り出し、 ECM レコードへ多くの録音を行った 。
メレディス・モンクは主に、拡張奏法( Extended techniques (en) )をはじめとするヴォーカルの革新で知られている。それはソロ・パフォーマンスで自身のアンサンブル結成以前に最初に編み出された。1961年12月、「スクルージ」というオフ・ブロードウェイの子供向けミュージカル(チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』の翻案。歌詞・音楽:ノーマン・カーティス Norman Curtis 、演出・振付:パトリシア・テイラー・カーティス Patricia Taylor Curtis )のソロ・ダンサーとして、グリニッジ・ヴィレッジのアクターズ・プレイハウスに出演した。1964年、モンクはベヴァリー・シュミット・ブロッサム (en) に学んだ後サラ・ローレンス大学を卒業し、1968年にはパフォーマンスへの多分野にまたがるアプローチを活動とする集団、ザ・ハウスを創設した。
モンクのパフォーマンスは、1968年にサンフランシスコで出会ったブルース・ナウマンをはじめ数多くのアーティストに影響を与えた。1978年、モンクは新しく、広範囲のヴォーカル・テクスチュアとフォーム — それはしばしばミニマル楽器のテクスチュアと対比される — を探求するため、メレディス・モンク・アンド・ヴォーカル・アンサンブルを(スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスといった音楽的同士の類似したアンサンブルにならい)結成した。モンクは今日まで彼女の作品の公開を続けているミネアポリスのウォーカー・アート・センターとの長年の関係を開始した。この時期の作品には、1981年にマンフレート・アイヒャーのECMレコードから発売された彼女のファースト・アルバムに録音された『ドルメン・ミュージック』(1979年)がある。
1980年代には、モンクは2本の映画、Ellis Island (1981年)と Book of Days (1988年)の脚本を書き、監督した。後者は一つのアイディアから発展したと ECM への録音のライナーノーツで経緯を語っている; 「1984年の夏のある日、田舎の私の家の床を掃除していたとき、若い女の子の(モノクロの)イメージと、中世のユダヤ人コミュニティの通りのイメージが(こちらもモノクロで)浮かんだ。」この作品には映画とは別の異なるバージョンが存在する。二つめはコンサートホールのための作品で、アルバム(モンクとアイヒャーのプロデュース)は「耳のための映画」である。
1990年代初頭、モンクは1991年にヒューストンで初演された『アトラス』というオペラを作曲した。彼女は器楽アンサンブルとオーケストラのための作品も作曲した。最初のオーケストラ作品は Possible Sky (2003年)で、 Stringsongs (2004年)はクロノス・クァルテットに委嘱された。2005年には、パシフィック・モーツァルト・アンサンブルとともに、ビョーク、テリー・ライリー、 DJ スクーピー(アルバム Drums of Death でモンクをサンプリングした)、ウルスラ・オッペンス、ブルース・ブルベイカー Bruce Brubaker や、新音楽のアンサンブル、アラーム・ウィル・サウンド、バン・オン・ア・カン・オールスターズが出演したカーネギー・ホールのコンサートをはじめとする、キャリア40周年記念イベントが世界中で開催された。
モンクはマッカーサー・フェローシップなど多くの賞を受賞し、バード大学、フィラデルフィア芸術大学、ジュリアード学院、サンフランシスコ芸術大学、ボストン音楽院から名誉芸術博士号を授与された。2007年にはデメトリオ・ストラトス・インターナショナル賞を音楽の実験により受賞している 。
彼女の音楽は、コーエン兄弟(『ビッグ・リボウスキ』 1998年)やジャン=リュック・ゴダール(『ヌーヴェルヴァーグ』 1990年、『アワーミュージック』 2004年)などの映画で使用された。
最近のインタビューでモンクは好みの音楽としてブラジル音楽、特にカエターノ・ヴェローゾの録音、ミルドレッド・ベイリー(「30年代40年代」の偉大なジャズ歌手)の音楽、バルトークのピアノ曲集『ミクロコスモス』と発言している。
彼女のパートナーはオランダ生まれの振付家ミーケ・ヴァン・フック Mieke van Hoek だった(2002年死去)。
「私のほとんどの音楽、舞台、映画の中で、私は無時間性、繰り返されるサイクルとしての時間の感覚を表現しようと試みている。」
—アルバム『ブック・オブ・デイズ』( ECM New Series )ライナーノーツ(1990年)
「私は隙間で働いている。そこで声は踊り始め、体が歌い始め、舞台は映画となる。」
—デボラ・ジョウィット (en) (編)、『メレディス・モンク』、ジョンズ・ホプキンス大学出版(1997年)
「ビョークは、私の歌の1曲、「ゴーサム・ララバイ」(「ニューヨークの子守唄」)を歌っていました。私の[声楽の]学生のひとりがくれた MP3 ファイルで彼女の歌を聴き[...]、それが本当に面白いとおもいました。その後私たちは六ヶ月前に会い、お互いをとても好きになりました。彼女は美しい心を持っています。」
—『グローブ・アンド・メール』 2005年11月11日、トニー・モンタギュー Tony Montague によるインタビュー
横山 令奈(よこやま れな、欧文表記:Lena Yokoyama、1987年4月9日 - )は、日本のヴァイオリニスト。大阪府箕面市出身。クレモナ国立クラウディオ・ モンテヴェルディ音楽院卒業。
父の横山莞五と母の玲子(旧姓・清水。横山莞五の弟子)、妹の亜美もヴァイオリニスト。
7歳から両親に師事してヴァイオリンを学ぶ。長じてナンドール・セデルケニー(元大阪センチュリー交響楽団コンサートマスター)に師事。2006年からイタリアに留学。2011年2月、クレモナ国立クラウディオ・ モンテヴェルディ音楽院(Istituto Superiore di Studi Musicali ”Claudio Monteverdi”)を審査員一致の満点(dieci e lode)で卒業。その間の、2010年にはフィレンツェ・クレシェンド国際コンクール(Concorso Internazionale Premio Crescendo)のソロの部で1位。その後も、サルヴァトーレ・アッカルド、アレクサンダー・ロンクヴィッヒ、イヴァン・ラバーリャなどの下で研鑽を積む。
2013年からクレモナ・ヴァイオリン博物館で展示楽器の公開演奏者を務める。
2012年、ピアニストのディエゴ・マッカニョーラ、チェリストのアレッサンドロ・コピアと共にピアノ三重奏団Trio Kanonを結成し、ドゥイーノ市の国際室内楽アカデミーでパルマ三重奏団(Trio di Parma )に師事。2018年、トリノのピネローロ・トリノ国際室内楽コンクール(International Chamber Music Competition di Pinerolo e Torino Città Metropolitana)での第1位を始めとして、様々なコンクールで優勝、入賞を果たす。
2020年4月3日、新型コロナウイルスが蔓延する、イタリア北部クレモナの鐘楼「トラッツォ」の上でヴァイオリンを演奏、同月16日には同市の病院からの依頼を受け、病院屋上でヴァイオリンを演奏。それらの模様はYouTubeその他で配信され、世界中から賞賛を受ける。
2021年1月14日、姉妹そろって箕面市から「箕面ヴァイオリン大使」に任命される。
2021年8月3日発売のNewsweek Japan(2021年8月10日・17日号)で、「世界が尊敬する日本人100人」の一人に選出される。
クレモナ在住。
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