![フランソワ・ヴィヨン フランソワ・ヴィヨン](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/Francois_Villon_1489.jpg/400px-Francois_Villon_1489.jpg)
フランソワ・ヴィヨン(François Villon [fʁɑ̃swa vijɔ̃], 1431年? - 1463年以降)は、15世紀フランスの詩人である。中世最大の詩人とも、最初の近代詩人ともいわれる。
1431年にパリ市内で生まれたとされる。父母とは幼少時に別れ(生別か死別かもはっきりしない)、親類であったギヨーム・ド・ヴィヨンという名の聖職者に引取られた。この時期から「ヴィヨン」の姓を名乗り始めた(当初の姓は「モンコルビエ」とも「デ・ロージュ」ともされるが、定かではない)。
ギヨームの援助もあってパリ大学に入学して同学を卒業したものの、在学時より売春婦やならず者といった輩と行動を共にしていた。1455年に乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、パリから逃亡してアンジュー近郊の窃盗団に加わる。その後再び罪を得て1461年にオルレアンのマン・シュール・ロワール(Meung-sur-Loire)の牢獄に投獄されたが、恩赦により出獄。1462年、淫売宿で強盗・傷害事件を起こして投獄され、一時は絞首刑宣告を受けたが、10年間の追放刑に減刑されて1463年にパリを追放された。その後のヴィヨンの消息に関する記録は一切無い。
なお、フランソワ・ラブレー作の「パンタグリュエル物語」ではヴィヨンがパリ追放後にポアトゥ(Poitou)へ移り、同地の修道院で隠退生活を送った様子が記されているものの、史実に基づくものではない。
無頼・放浪の生涯であったが、近代的ともいえる詩作を残した。作品集として『形見の歌』(1456年)、『遺言詩集』(1461年)など。個別の詩では「Ballade des Dames du Temps Jadis」がヴィヨンの詩作の中でも特に名高い。
ゴールウェイ・キネル(Galway Kinnell、1927年2月1日 - 2014年10月28日)は20世紀後半の最も影響力のあるアメリカ合衆国の詩人の一人。ウォルト・ホイットマン公認の門下であるキネルは、空想の世界へ逃避することで充足を求める考えを断固として拒絶している。
最も愛されている詩集は"St. Francis and the Sow"および"After Making Love We Hear Footsteps"である。
ロードアイランド州のプロビデンス郡に生まれる。キネル本人によると、幼少期はエドガー・アラン・ポーやエミリー・ディキンソンの詩に夢中であった。これは、そういった詩に音楽的魅力を感じたから、また一人で過ごすのが好きだったからであるという。彼の表現を借りれば、郷里 ポータケットの「均質な感覚」に、その魅力的な言葉は訴えかけたのだ。
プリンストン大学で学び、友人であり詩人仲間でもあるW. S. マーウィンと共に1948年に卒業した。文学修士の学位を取得したのはロチェスター大学である。ヨーロッパや中東を広く渡り歩き、フルブライト・プログラムのためパリへ訪れている。1960年代にはアメリカの公民権運動に興味を持つ。アメリカへ戻ってすぐに人種平等会議(略称CORE)に参加し、ルイジアナ州ハモンドにおいて有権者登録および職場人種差別撤廃運動に尽力した。この取り組みによって一時キネルは逮捕されている。キネルは自身の公民権運動への参加と反ベトナム戦争運動の経験を活かして、長編の詩 The Book of Nightmaresを著した。
キネルはニューヨーク大学 でのクリエイティブ・ライティング(作文)の教授や米国詩人協会の会長を務めた。引退後はバーモント州の故郷で暮らしていた。2014年10月28日、白血病のため死去。87歳没。
キネルの作品の多くは社会問題を扱っているように見えるが、決して単独の主題に限定されてはいない。彼の作品を通じて、自然な比喩表現だけでなく精神的側面を指摘する批評家もいる 。例えば“The Fundamental Project of Technology”は、不気味な物の創造、単調で超現実的な恐怖の探究、人間と自然に危害を加える核兵器という3つの要素を全て扱っている。彼の現状改革主義や自然への愛で知られた人間性が破壊されることに対する怒りを表明するため、キネルは時に単純かつ残酷なイメージを利用する( “Lieutenant! / This corpse will not stop burning!”から “The Dead Shall be Raised Incorruptible” ) 。ある種の悲しみも“Nobody would write poetry if the world seemed perfect.”といった恐ろしい作品に読み取れる。控えめで重々しい彼の言葉の中には、楽観や美点も存在する。後期の作品で( “Other animals are angels. Human babies are angels” )、動物や子どもが果たす重要な役割において特に顕著であり、それは“Daybreak”や“After Making Love We Hear Footsteps”といった詩で明白に示されている。
翻訳作品や詩集に加えて、一篇の小説と( Black Light, 1966 ) 子ども向けの本も( How the Alligator Missed Breakfast, 1982 )も世に送り出している。
1980年に親友のジェームズ・ライトが亡くなった際には彼に向けた二篇の哀歌を From the Other World: Poems in Memory of James Wright と題して著した。
セム・ドレスデン(Sem Dresden, 1881年4月20日 アムステルダム – 1957年7月30日 デン・ハーグ)はオランダの音楽教師・音楽評論家・作曲家。
商人の家庭に生まれる。アムステルダムでベルナルト・ズヴェールスに師事して音楽の学習を始める。1903年にベルリンに移ってハンス・プフィッツナーに入門。帰国後の1905年から1914年まで、ラーレンやアムステルダム、ティールで聖歌隊長として合唱指揮者を務めた。1914年に9名からなる無伴奏合唱団を設立し、1915年からオランダやベルギーで音楽に関する講師を務めた。1918年に現代オランダ作曲家協会を設立するが、1924年に頓挫した。1919年にアムステルダム音楽院の作曲法の教授となり、1924年に院長に昇進した。1937年から1941年まで、後に1945年から1949年まで、ハーグ王立音楽院の院長に就任。1949年に教育界から引退すると作曲に没頭し、ようやく最晩年になって数々の主要な作品を創り上げた。『テレグラフ (De Telegraaf )』誌に音楽批評を寄せたほか、現代音楽に関する2つの著書を遺している。
主な門人にウィレム・ヴァン・オッテルローやコル・デ・フロート等がいる。
高田勇の翻訳で知られる同名の歴史作家セム・ドレスデン(1914年~2002年)は、息子である。
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