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ビハチ


ビハチ


ビハチ(ボスニア語:Bihać、クロアチア語:Bihać、セルビア語:Бихаћ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属し、ウナ=サナ県の県都である。

歴史

町が登場する最古の文献は、1260年のクロアチア・トプスコ(Topusko)の所領を示した、ハンガリー王国のベーラ4世のものであり、1262年に自由都市となった。ビハチは一時期、ハンガリーとの同君連合にあったクロアチア王国の首都であったことがある。14世紀に自由都市の地位を失い、フランコパン家(Frankopan)の所領となった。16世紀にオスマン帝国との戦いが始まると、王国の直轄領とされた。その後1592年にオスマン帝国によって陥落されるまで抵抗を続けた。

ビハチ要塞はその後オスマン帝国の北西端の守りとなった。正教徒のセルビア人ヴラフ(Vlah)から改宗したハサン・パシャ・プレドイェヴィッチ(Hasan-pasha Predojević)を宰相とする、ビハチ州(sanjak)の中心となったが、後の1699年、オーストリアとの抗争が続く中でにボスニア州(1580–1867)に統合された。1865年、再びビハチ州の中心となったが、1878年にボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下となった。

その後平和な時代が続いたことは、1888年に町を取り巻いて辺縁から隔離していた城壁が取り払われたことからも分かる。新しい政府は学校や公共施設を建造し、町の発展は加速された。ユーゴスラビア王国建国後も西ボスニアの中心地として繁栄したが、1930年代の世界恐慌によって経済発展が阻害された。

第二次世界大戦中は、枢軸国・ファシスト勢力と戦っていた、ユーゴスラビア共産党を主体としたヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンの拠点として機能した。1942年11月、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回会合がこの地で開かれ、反ファシスト闘争の中心地となった。そのため、枢軸勢力から標的とされ、1943年にドイツ軍に再占領され、1945年にドイツが敗退するまで占領が続いた。

ビハチを中心とする地域は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦地となった。この地域はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍が支配していた一方、その周囲はセルビア人武装勢力に包囲され、3年間にわたって孤立していた。1995年夏にクロアチア共和国が、将軍アティフ・ドゥダコヴィッチ(Atif Dudaković)率いるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍と共同で実施した嵐作戦によってクロアチアの勢力圏と結ばれ、長い包囲から解かれた。

住民構成

みどころ

ビハチとその周辺は、豊かな自然に恵まれている。町のあるウナ川渓谷はザグレブやダルマチア地方からのアクセスも容易である。ウナ川では毎年恒例のレガッタや、「ビハチの夏」という演劇の催しなどが開かれる。

国境

ビハチ自治体の領域はクロアチアとの国境に面しており、町の中心から西に向かったイザチチ(Izačić)付近(クロアチア側はプリトヴィチュカ・イェゼロ(Plitvička Jezera)自治体のリチュコ・ペトロヴォ・セロ(Ličko Petrovo Selo)である)、および町の中心から南に向かったリパチュ(Ripač)付近(クロアチア側はウジュレヴィチ(Užljebić)である)でクロアチアとの行き来が可能である。ビハチは、ザグレブからダルマチア地方に至る最短ルートの上にある。

教育

ビハチ大学は1997年に開設され、7つの学部(工学、経済学、法学、生物学、教育学、医学、イスラム教育学)がある。

スポーツ

地元のサッカー・クラブとして、NKイェディンストヴォ・ビハチがある。

経済

ビハチにはプレミンガー(Preminger)ビール醸造所がある。また、主要な建物や道路の修復が進められている。

出身者

  • ズデンコ・コジュル - チェス選手

参考文献

  • Official results from the book: Ethnic composition of Bosnia-Herzegovina population, by municipalities and settlements, 1991. census, Zavod za statistiku Bosne i Hercegovine - Bilten no.234, Sarajevo 1991.

外部リンク

  • 自治体公式サイト
  • プレミンガー醸造所



Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ビハチ by Wikipedia (Historical)


オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服


オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服


オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服では、オスマン帝国がバルカン半島北西部に存在したボスニア王国を中心とするボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻し、最終的に併合した一連の戦争や外交について述べる。1386年ごろ、オスマン帝国は初めてボスニア王国に侵攻した。それから65年後の1451年、オスマン帝国は公式にボサンコ・クライシュテ(Bosansko Krajište) と呼ばれる軍事的最前線の緩衝地帯のような行政区画をボスニアの一部とヘルツェゴビナの一部に設置した。1463年、オスマン帝国はボスニア王国を滅ぼして最後の王スティエパン・トマシェヴィチを処刑し、その領土を併合した。ヘルツェゴビナも1482年までに併合された。しかし現在のボスニアの西側にあたる地域の征服にはさらに1世紀を要し、1592年のビハチ征服を持って完了した。

オスマン帝国の北西バルカン進出

オスマン帝国は、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナにあたる地域を数十年、一部は数世紀をかけて征服した。ただそれより以前の14世紀末から、オスマン帝国軍は何度もこの地域に侵入して一帯を荒らしてきた。最初の襲撃は、1384年にティムルタシュ・パシャ率いるオスマン軍がボスニア東部を襲ったものである。1388年、現在のボスニア・ヘルツェゴビナにあたる領域内で初めてオスマン軍とボスニア王国軍が衝突した。このビレチャの戦いはボスニア軍の勝利に終わったが、オスマン帝国はマリツァの戦い (1371年)やコソボの戦い (1389年)などバルカン諸国に対する決定的勝利を積み重ね、ボスニアを追い詰めていった。

1392年、オスマン帝国はかつてのセルビア帝国の首都スコピエを中心としてスコプスコ・クライシュテを設置した。クライシュテ(krajište крајиште、「前線の地」の意)とはもともとセルビア帝国やセルビア専制公国において、近隣敵対勢力の頻繁な襲撃を受け支配が安定しない国境地帯に置かれた行政区画であった。後にボスニアも征服されてから同様の武装領域であるボサンコ・クライシテ (Bosansko Krajište)が設置され、スコピエから統治を受けることになった。

オスマン・ボスニア戦争

1391年に初代ボスニア王スティエパン・トヴルトコ1世が死去してから、ボスニア王国は衰退の一途をたどった。1410年代には、フルヴァティニッチ家のフルヴォイェ・ヴクチッチ、コサチャ家のサンダリ・フラニッチ、パヴロヴィチ家のパヴレ・ラデノヴィチといった大貴族がかつてのトヴルトコ1世の領域の大部分を割拠し、王家のコトロマニッチ家に匹敵する力を持って王国を支配していた。1413年、フルヴォイェ・ヴクチッチとサンダリ・フラニッチの抗争が激化すると、後者がセルビア専制公ステファン・ラザレヴィチの対オスマン戦争に協力していたのに対抗して、前者はオスマン帝国と手を組んだ。その手引きにより1414年5月、オスマン帝国がボスニアに侵攻し、次いでこれに対抗してハンガリー王国も侵攻してきた。両軍は1415年8月にドボイとラシュヴァ渓谷の近くで衝突し、オスマン帝国が大勝利を挙げたことで、ボスニアをめぐる両大国のパワーバランスが崩壊した。

1414年にドニ・ヴァクフ(中世には「ボスニアのスコピエ」と呼ばれた)を占領したオスマン帝国は、それ以降ボスニア領内に永続的に軍を駐留させるようになった。1414年から1418年の間に、オスマン帝国はフォチャ、プリェヴリャ、チャイニチェ、ネヴェシニェ、ヴィシェグラード、ソコルを征服した。

1415年、現在の東ヘルツェゴビナにあたる領域を支配していたサンダリ・フラニッチがオスマン帝国に従属した。

1455年、イーサ=ベグ・イサコヴィチが西バルカンのオスマン領で初めて国勢調査を実施した。

1460年代までに、ボスニア王国の領土は著しく縮小していた。オスマン帝国は現在の東ボスニア、北はシャマツまでを押さえていた。またボスニア王国の大貴族スティエパン・ヴクチッチ・コサチャが、現在のヘルツェゴビナ全域、北はグラモチまでを支配していた。

ボスニア併合と行政区画

1463年、オスマン帝国はボスニア王スティエパン・トマシェヴィチを処刑し、王国の併合を完了した。直後にハンガリー王国がヤイツェ要塞を包囲し、奪取した(ヤイツェ包囲戦)。この成功は、ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌスの宮廷ではハンガリー宗主権下でのボスニア王国復興として讃えられ、ヤイツェにバンが設置された。

同年、ボサンコ・クライシテがボスニア・サンジャクに改組され、イーサ=ベグ・イサコヴィチが初代サンジャクベイとなった。 

1463年の王国滅亡後、マフムト・パシャがヘルツェゴビナにも侵攻し、ブラガイを包囲した。その後スティエパン・ヴクチッチ・コサチャはブラガイ以北の全領土をオスマン帝国に割譲して停戦を結んだ。

ボスニアにおけるオスマン領サンジャクは拡大を続けた。1470年にはヘルツェゴビナ・サンジャクが成立し、ボスニア・サンジャクと同様ルメリ・ベイレルベイスィの下位に置かれた。1480年にはズヴォルニク・サンジャクが設置されたが、こちらはブディン・ベイレルベイスィに従属するものとされた。

王国滅亡後もボスニアの一部の要塞はオスマン帝国への抵抗を続けた。最後のヘルツェゴビナに残存していた要塞が陥落したのは1481年である。コサチャ家はオスマン帝国に従属する聖サヴァ公として存続していたが、1482年に追放された。

メフメト2世没後の1481年、ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌスが再度ボスニアに侵攻し、ヴルフボスナ(サライェヴォ)まで達した。しかしこの時の獲得領は一年のうちに失われた。

1530年代までは、ハンガリー王国はサヴァ川南岸の要塞を保持していた。ヤイツェも長らくハンガリーが支配していたが、1527年にオスマン帝国の手に落ちた。ウソラではベリスラヴィチ・グラバルスキ家が力を持っていたが、1530年代にここも屈した。

ボスニア南西部は1537年にクリス・サンジャクの一部となり、ルメリア・エヤレトの下に置かれた。

その後

1580年、ボスニア・エヤレトが設置された。

1592年のビハチ陥落を持って、中世ボスニア王国の版図が西端までオスマン帝国の支配下となり、現代にいたるボスニアの西側国境が形成された。その後ボスニア・ヘルツェゴビナのオスマン支配は、大トルコ戦争中の1689年まで揺るぐことはなかった。

脚注

参考文献

  • Bataković, Dušan T. (1996). The Serbs of Bosnia & Herzegovina: History and Politics. Dialogue Association. https://books.google.com/books?id=k3xpAAAAMAAJ 
  • Sugar, Peter (1993) [1977]. Southeastern Europe under Ottoman rule, 1354-1804. University of Washington Press. p. 64. ISBN 0-295-96033-7. https://books.google.com/books?id=LOln4TGdDHYC&pg=PA64. "2. Hazim Šabanović studied this phenomenon in his numerous works dealing with Bosnia." 
  • Bosansko krajište 1448-1463, Godišnjak Istoriskog društva Bosne i Hercegovine
  • Krajište Isa-bega Ishakovića, Zbirni katastarski popis iz 1455. godine, vol. 2. Bosansko Krajište, Hazim Šabanović, Institute of Oriental Studies, Sarajevo, 1964.
  • Ibrahimagić, Omer (1998). Constitutional development of Bosnia and Herzegovina. Sarajevo: Vijeće kongresa bošnjačkih intelektualaca. ISBN 9958-47-030-6. http://www.camo.ch/PDFO/OmerBiH.pdf 
  • Bosanski pašaluk, postanak i upravna podjela, Hazim Šabanović, Sarajevo, 1982

関連項目

  • オスマン帝国期のボスニア・ヘルツェゴビナ
  • ヘルツェゴビナ・エヤレト

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服 by Wikipedia (Historical)


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