Aller au contenu principal

名古屋飛ばし


名古屋飛ばし


名古屋飛ばし(なごやとばし)は、日本国内で行われるイベントの開催が、愛知県名古屋市およびその周辺地域(中京圏)で行われないことを示す俗語を指す。

1980年代に歌手のマドンナやマイケル・ジャクソンの来日時など、それまで大きなイベントやコンサートで名古屋公演が実施されなかったことがきっかけとなり、「名古屋飛ばし」という言葉が広まった。

1992年(平成4年)に東海道新幹線のぞみ301号が名古屋駅を通過をするようになったため、報道各社が「名古屋飛ばし」として再び取り上げた。

鉄道

「のぞみ301号」の設定とそれをめぐる騒動

「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年(平成4年)3月14日に東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅と京都駅を通過するダイヤが組まれることが、1991年(平成3年)11月に報じられたことである。新横浜駅を停車駅とした理由は、同駅周辺の乗客が早朝帯に東京駅方面へ出るのが難しかったためである。

「のぞみ301号」は、東京都区内・横浜市周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪市内近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事後、地盤を固めるために、早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていたうえ、新大阪駅から大阪中心部までは距離がある。

そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が実現不可能となるため、苦肉の策として名古屋・京都両駅を通過させることで対応しようとしたのである。新大阪着8:30であれば「9:00の会議に間に合う」とアピールできるが、「名古屋着7:40」では、逆に早すぎてビジネスマンへのPR材料にはあまりならない。

また当時の「のぞみ」は、東京 - 新大阪間のみの運転であり、名古屋駅から山陽新幹線沿線(岡山・広島・博多方面)へ向かう利用者にとっても、恩恵はあまり無かった。よって「のぞみ301号」が名古屋駅を通過しても、当時の状況では利用客にさほど不便を強いるものではなかった。他方、同時に設定された他の「のぞみ」は、当時の最速「ひかり」と同じく名古屋・京都両駅に停車し、新横浜駅は通過であった。

ダイヤ検討の会議で、営業本部の提案したこの名古屋、京都両駅通過案と「早朝に名古屋発で西に向かう『ひかり』がある。利用客に実害はない」と、合理性を強調する意見に対し、JR東海社長(当時)の須田寬は「地元の反発はあるかもしれないが、丁寧に説明すれば分かってもらえる」と承諾した。同年の夏場にはダイヤが固まった。JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する乗客には、前後の列車を使用してもらうことで、極力不便を与えない配慮を講じることにしていた。

ところが、須田が地元に根回しを始める前に、1991年(平成3年)11月2日、この方針が(前記の配慮事項を無視して通過する話だけが)スクープされてしまい、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界が猛反発。中日新聞など地元メディアも「名古屋飛ばし」として批判的な報道を行い、一カ月の間に国会議員や地方議員、鈴木礼治知事、西尾武喜市長、財界団体や主要企業のトップら百人近くが、JR東海に足を運んだ。

議員たちは超党派で議員連盟(議連)を作り、ダイヤ変更を求める動きを見せる。須田は「ダイヤは精緻に編成してあり、修正は利かない。議連ができたら困る」と困惑した。中日新聞のコラム「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでも反応があった。

愛知県知事鈴木礼治は、JR東海の方針に対し「通過して結構だとは言えんわな」とやんわり指摘した。また、中部経済連合会の幹部は「本社のある所(中村区)に止まらないのはどういうことか」と発言した。

須田は今枝敬雄に対し、上京する際の名古屋駅ホームで「実害はないんです」と訴えた。

これらの騒動の背景には、愛知県選出の海部俊樹が首相を退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向が目立つことを報告するなどの事情もあり、鈴木知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過にも至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」の問題視、政治家インタビューでも話題となった。

「早朝の1本だけ」というJR東海側の説明が功を奏して、次第に地元側にも理解が広がり、当初反発していた地元選出の国会議員たちも「1本だけなら」と条件付きで容認する議員が大勢となった。

この「名古屋飛ばし」が愛知県や名古屋市で大きく問題視された背景について、2012年(平成24年)に『朝日新聞』名古屋本社版夕刊の連載記事「のぞみ20年」を担当した朝日新聞社記者の神田大介は、JR東海が地元に事前の根回しをしていなかった(実際には根回しをする前にスクープされてしまい、通過という事実だけが伝えられた)ことと、「名古屋飛ばし」をスクープしたのが『読売新聞』だったため、中京圏で圧倒的なシェアを誇る中日新聞をJR東海批判に走らせて、地元世論に影響したのではないかと分析している。

後の中日新聞のインタビューに対して、北川正恭は、議員集会で「民間会社(JR東海)に議員が口を挟むべきではない」と主張したと明かしている。北川は、かつて日本国有鉄道の改革委員会に所属し、政治家の利益誘導によるローカル線建設(=我田引鉄)が、国鉄の利益を圧迫し、国鉄分割民営化の遠因となった経緯に詳しく、その上で「民営化後も同じでは駄目だと思った」と振り返っている。

懸念した議員連盟の結成には至らず、今枝らも、将来のリニア中央新幹線で「名古屋飛ばし」がないように「今回のダイヤとリニアの停車駅は関係ない」との覚書をJR東海に出させ、矛を収める。こうして、騒動の主たる東海地方の政財界とJR東海の対立は1か月で終息した。

須田は一連の騒動について、後の中日新聞の取材に対し「名古屋飛ばしの批判は新幹線を大事にしてくれている裏返し。民間会社として、地元がいかに大事かを痛感した」と振り返っている。

こうして1992年(平成4年)3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は、地元メディアを中心に大きく報じられた。なお、運輸省(当時)の「新幹線鉄道構造規則」によれば、通過駅のホームはその端から2本のレールの中間点までの距離が1.8 m以上、待合室などホーム上の構造物までの距離が3 m以上離れていなければならないところ、名古屋駅はレールの中間点まで1.76 m、構造物まで2.53 mと条件を満たしておらず、京都駅でも構造物までの距離が足りていなかった。そのため、同省から70km/hの速度制限を条件に特例許可を得て通過していた。翌1993年(平成5年)3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。

「名古屋飛ばし」の終焉とその後

1997年に道床安定作業車の導入により、路盤安定の技術の進歩によって保線工事の翌日の速度制限(170km/h)の必要性が無くなった事から、新横浜・名古屋・京都の各駅に停車しながら 東京 - 新大阪間を2時間半で結ぶことが可能となったため、同年11月29日に「のぞみ301号」は後続の「のぞみ1号」(500系)に統合される形で廃止された。以後、名古屋駅と京都駅を通過する新幹線の営業列車は設定されていない。

2020年代現在の東海道新幹線は、車体傾斜装置のついたN700AとN700Sのみで運行しており、カーブでも高速走行が可能になり、同時に車両の加減速性能も向上しており、「旧のぞみ301号」と同じく6時に東京駅を出発している「のぞみ1号」は、停車駅が3駅増えたにもかかわらず、「旧のぞみ301号」よりも8分早く8時22分に新大阪駅に到着する。

2012年1月9日に名古屋テレビが放送した『あなたが選ぶ!東海地方の心に残るニュース50選』の「社会&政治経済」では「名古屋飛ばし」が13位に選ばれた。

当時の名古屋飛ばしの渦中で抗議していた鈴木礼治元愛知県知事は、2006年の中日新聞のインタビューで「今から考えれば、たかが一本。過剰な反応にも見えるがなぜなのか?」との問いに「いやあ、前々から心配しとったもんでねぇ…」と心境を語った。鈴木の話は、遡る事1964年10月1日の東京・新大阪間の東海道新幹線の開通である。当時、4時間半近く掛かっていた東京・名古屋間の在来線特急こだま・つばめが新幹線の開通で2時間半となり、名古屋市は新幹線の便利さを歓迎したが、1966年に週刊誌で衝撃的な記事が掲載された。記事内容には当時日本開発銀行調査役の佐貫利雄の記事で「東京と大阪以外は商売はダメになる!」の記事の冒頭で、東海道新幹線の開通でやがて名古屋は「空中分解の運命にある」、「新幹線で結ばれた東京・大阪の東西二大都市がますます高い山となり、名古屋はその「谷間」に沈む」と指摘されていた。当時、愛知県庁の企画課長を務めていた鈴木にはその実感があり、佐貫利雄の著書を読み漁っていた。「つばめの頃は名古屋が東京に取り込まれる感じは無かったが、新幹線が開通した途端、多くの企業や会社が名古屋の支店を東京に引き揚げたり、格下げされてね」と言い、その後も名古屋が飛ばされる事への不安が続いた為、のぞみ301号の名古屋駅通過で再び名古屋が飛ばされ、あの時と同じ事になるのでは、と危機感があったと鈴木は語る。

「のぞみ301号」の経緯

  • 1991年
    • 11月2日:JR東海が、東海道新幹線における新設の速達列車(仮称:スーパーひかり)の東京発一番列車を、名古屋駅と京都駅を通過する方針とすることが明らかになり、『中日新聞』夕刊が「名古屋飛ばし」と1面トップで採り上げる。
    • 11月3日:『中日新聞』朝刊が「ナゴヤは怒ってます」の見出しでこの件を報道し、中部経済連合会会長・名古屋商工会議所会頭・西尾武喜、その他各界の反応を伝えた。
    • 11月4日:愛知県知事鈴木礼治と名古屋市長西尾武喜が定例会見でこの件について触れ、鈴木は「地域間競争の教訓としなければならない」と述べた。
    • 11月5日:名古屋圏の半径20kmの46市町村長の会合である名古屋市近隣市町村長懇談会で、「名古屋飛ばし」と地域振興についての話し合いが行われる。
    • 11月6日:超党派の国会議員により「スーパーひかりと東海地域を考える会」が発足。今枝敬雄が須田寬に面会し、12日の会合に出席するように要請。
    • 11月9日:JR東海労働組合が会社側へ「名古屋飛ばし」反対を申し入れる。
    • 11月12日:東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)選出の超党派国会議員で結成された「スーパーひかりと東海地域を考える会」が会合を持った。出席者は国会議員24人と代理出席9人、須田も参加した。この中で「一本許せば、次々と名古屋飛ばしが出る」と旧愛知県第1区の衆議院議員、今枝敬雄が声を上げると、他の議員も「地元で応援しているのに、恩を仇(あだ)で返すのか」と追及した。
    • 11月14日:須田が名古屋市役所を訪問。名古屋市議会議長に「同時間帯には名古屋からの乗客がほとんどない」と経過を説明し、議会運営委員会理事会にも出席して理解を求めた。これに対して地元側は「名古屋飛ばしは1本だけである」ことの確約を要求した。
    • 11月20日:愛知県知事・県議会議長、名古屋市長・同市議会議長の4人がJR東海へ要望書を送る。
    • 11月28日:JR東海は「名古屋飛ばしは1本のみ」と回答。
    • 12月6日:「スーパーひかり」と仮称された列車名称が「のぞみ」に決定。
    • 12月25日:『ミックスパイください』で、今年の流行語として「名古屋飛ばし」を『現代用語の基礎知識』編集長の深川章が解説。
  • 1992年
    • 3月14日:「のぞみ」301号運転開始。『モーニングワイド』が朝7時40分の名古屋駅通過を生放送し、同時間帯の『ズームイン!!朝!』でも中京テレビアナウンサーの佐藤啓が「まさか私の目の前で乗客がいる列車の名古屋駅通過の瞬間を見るのは初めてであり、これは長年名古屋に住んでいる私達への冒涜でありましょうか?」とレポートした。また同日朝8時30分から放送の『海江田万里のパワフルサタデー』も放送開始直後に新大阪駅に到着した「のぞみ301号」を生放送した。
  • 1997年
    • 11月29日:「のぞみ301号」が続行の「のぞみ1号」に統合する形で廃止。この日をもって、新幹線の「名古屋飛ばし」および「京都飛ばし」が終了。

現在

他社線も含めた名古屋駅を通過する旅客列車は、寝台特急サンライズ瀬戸・サンライズ出雲が唯一となっている。深夜の遅い時間帯であり、京都駅(下り列車は大阪駅)も通過する。

その他

一般的には、首都圏や京阪神地域で展開される一方で、名古屋ではイベントが展開されない事例を指す。

また、各種イベントで稼働率の高かった愛知厚生年金会館や愛知県勤労会館が、代替施設無しで閉鎖された問題に当たっては、名古屋市や地元財界の態度は冷淡であり、これに伴ってコンサートの名古屋公演を取り止め、従来からの利用者が、活動場所を名古屋市外への施設へ移すなどの動きが実際に見られると、名古屋市側は述べている。

東海ラジオで放送されていた『源石和輝 モルゲン!!』でテーマにされた際にも、インタビューで断られた事例が多数あったと番組スタッフは語っている。

2020年4月7日に安倍晋三首相から新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言が出された際に、感染者数割合の少ない愛知県を含まなかったため、「名古屋飛ばし」と言われることがあった。しかし、これは本来の意味とは全く違う用法である。

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 鉄道と政治#新幹線と政治

Collection James Bond 007


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 名古屋飛ばし by Wikipedia (Historical)