![立花義家 立花義家](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
立花 義家(たちばな よしいえ、1958年10月27日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(外野手, 一塁手)・コーチ。
「義家」という名前は、源義家にあやかって祖父が命名した。
大牟田市立勝立中学校2年時は投手で、4番・エースの中心選手として地区優勝に導く。柳川商業に進学し、野球部では投手として入部したが、同期入部の久保康生を主力投手として起用することになったため、外野手や一塁手での起用が増える。2年次の1975年、春の選抜に中堅手として出場するが、1回戦で堀越高に敗退。同年夏も県予選決勝に進出するが、小倉南高に敗れる。1年上のチームメイトに加倉一馬がいた。3年次の1976年には夏の甲子園で同期のエースである久保康生を擁し、1番・一塁手として出場。三重高を降して3回戦に進出するが、PL学園の中村誠治(早大 - 日産自動車)に抑えられ0-1で惜敗。
「左の原辰徳」と呼ばれ、1976年11月19日に行われたプロ野球ドラフト会議にてクラウンライターライオンズに1位指名される。当時、希望球団はこの前年(1975年)に初優勝を果たした広島で、広島のスカウトからも1位か2位で指名するという話を聞いていたが、指名順11番目の広島より先に7番目のクラウンに指名される。広島以外の球団に指名されたら松下電器野球部に入ることになっていたが、周囲から「高校生の野手で1位指名なんてあまりないことだから」と背中を押されてクラウン入りを決意。
高校卒業後の1977年にクラウンライターライオンズへ入団。プロ入り後は主に外野手として起用され、2年目の1978年には島原キャンプで臨時コーチを務めた松木謙治郎に「張本勲二世」と評され、根本陸夫監督がレギュラーに抜擢。開幕戦で3番に座り「19歳の3番打者」として注目を集めた。同年は規定打席(27位、打率.250)にも到達。クラウンライターとして最後の試合であった平和台での日米野球「クラウン+巨人連合軍」対シンシナティ・レッズ戦では、4番・王貞治の次の5番打者を任された。所沢移転後も主力選手として活躍し、1979年には西武球場公式戦初本塁打を放ち、これがプロ入り初本塁打となった。
1980年にはチーム最高打率.301(リーグ13位)を記録、18本塁打を放った。田淵幸一、土井正博、山崎裕之、大田卓司、スティーブ・オンティベロスら強打者が好調で打順が上がらなかったため、「恐怖の7番打者」と評された。1980年と1981年にそれぞれ月間2満塁本塁打を記録するなど、低迷期を支えた。
1982年からは西武の2年連続日本一に貢献、1983年の日本シリーズでは全7戦に先発出場し、第4戦で8回表に加藤初から逆転2点本塁打を放つなど、27打数6安打2打点を記録する。しかしその後はやや伸び悩み、1985年には田尾安志の移籍入団、金森永時の台頭もあって外野の定位置を失う。代打での出番が多くなったが、代打に回ってからも勝負強い打撃を披露、チームの黄金時代の一翼を担った。
1年目以来となる一軍公式戦出場なしに終わった1991年オフに阪神タイガースへ金銭トレードされ、代打の切り札として2位躍進に貢献するも、1年限りで退団。
1993年は台湾プロ野球の俊国ベアーズでプレーし(当時の同僚に野中徹博がいた)、チームの4番打者を務めた。同年に引退。
引退後は4年間のサラリーマン生活(1994年 - 1997年)を経て、ダイエー→ソフトバンク(1998年 - 2001年二軍打撃コーチ, 2008年編成管理統括付, 2009年 - 2012年・2017年 - 2021年一軍打撃コーチ)、オリックス(2002年 - 2003年一軍打撃コーチ)、西武(2004年 - 2007年一軍打撃コーチ)、ロッテ(2013年 - 2016年一軍打撃コーチ)でコーチを務めた。
西武時代の同僚伊東勤からは西武、ロッテ監督時代に一軍打撃コーチで招聘され、伊東からの信頼も厚かった。
西日本新聞によるとコーチとしては選手に寄り添う丁寧で熱心な指導スタイルを信条としており、実直で飾らない人柄もあって、選手からの信頼も厚かった。西武時代の同僚石毛宏典監督の招聘でオリックスの一軍打撃コーチに就任したが、チーム打率.235、チーム総得点438といずれもリーグ最下位に終わり、39年ぶり、オリックスとして初の最下位に終わった。西武一軍打撃コーチ時代の2007年には26年ぶりのBクラスに終わり、10月7日に球団側から翌年は契約しないことを通告された。ソフトバンクコーチ時代は工藤公康監督の下で2度のリーグ優勝と4度の日本一に貢献。2020年は突発性難聴の疑いなどもあって一時体調を崩して休養していた。2012年は一軍打撃コーチを務めていたチーム得点がリーグ5位と低迷し、同年限りで退団。2019年は一軍打撃コーチを務めたが、得点はリーグ4位に低迷し、得点力不足に苦しんだ。長谷川勇也、中村晃、柳田悠岐を育てたほか、栗原陵矢や、打力を課題にしていた周東佑京らの成長にも大きく寄与。
2022年は東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチを務めたが、同年10月14日、同年限りで退任することが発表された。
2023年からは田畑一也、内藤重人と共に三星ライオンズのコーチとなる。
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