![山下慶徳 山下慶徳](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
山下 慶徳(やました けいとく、1946年4月20日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(外野手、三塁手)。元千葉ロッテマリーンズの山下徳人は甥。
和歌山県立海南高等学校では、1年秋からエース。1962年秋季近畿大会では決勝で和田徹らがいた明星高を降し優勝。
1963年の春の選抜出場を決める。選抜では1回戦で博多工に大勝。2回戦で下関商の池永正明と投げ合うが、延長16回サヨナラ負けを喫する。下関商はこの大会に優勝。同年夏は県予選準決勝で向陽高の野崎恒男に抑えられ敗退、甲子園には届かなかった。
1964年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は2回戦で尾道商の小川邦和に完封負け。夏の選手権は、2回戦でエース成田文男を擁する修徳高に逆転勝ち。準々決勝まで進むが亀井進、古田忠士らがいた早鞆高に敗退。この大会の県予選2回戦では、耐久高を相手にノーヒットノーランを記録した。
高校卒業後は河合楽器に進み外野手に転向。都市対抗野球大会にも常連として連続出場。しかし1969年までは左翼手として小松時男と併用されるなど、出場機会には恵まれなかった。
1970年には佐藤正治、上垣内誠がプロ入りしたことに伴い、三番打者・中堅手として都市対抗に出場する。1回戦で鐘淵化学の谷村智博に抑えられ敗退。同年の社会人野球ベストナイン(外野手)に選ばれている。
1970年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトアトムズ(スワローズ)から1位指名され入団。
1972年には一軍に定着し、主に中堅手として58試合に先発出場。福富邦夫とレギュラーを争う。
1973年はクリーンアップを打ち、同年は初の規定打席(17位、打率.259)にも達する。
1976年にはチャーリー・マニエルの入団もあって開幕直後から三塁手として起用され18試合に出場するが、シーズン中盤から外野手に戻る。
1978年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは2試合に代打として出場するが、無安打に終わった。同年オフに、中山孝一との交換トレードで南海ホークスに移籍。
1979年には中堅手、右翼手として49試合に先発出場。五番打者としても5試合に起用されるが打撃面で低迷、期待通りの活躍はできなかった。同年暮れ、三浦政基との交換トレードでヤクルトに復帰。
1981年を最後に引退した。その後は都内で飲食店を経営していた。ヤクルトOBが主催する少年野球教室の講師も務める。
第100回全国高校野球和歌山大会では始球式を行った。
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